コラム

反イスラーム的? サウディ・ブロガーの運命やいかに

2012年02月18日(土)16時47分

 昨年以来の「アラブの春」では、若者たちが「恐怖の壁を壊した」とよく言われる。

 その壊す壁が「宗教」にも及んだのだろうか、と思わせられる事件が起きた。23歳のサウディアラビア人ブロガーが、預言者ムハンマドを冒瀆するブログを書いたのである。

 ことの発端は、こうだ。サウディアラビアの「アル・ビラード」紙(紙面の7割が広告という、タブロイド紙だ)のジャーナリストだったハムザ・カシュガリーが、2月5日の預言者ムハンマド生誕祭に、「あなたのために礼拝しない」とか「あなたにひれ伏さない」といった、預言者に語りかける口調のブログを書いた。これが預言者を侮辱した、というので、サウディの宗教指導者は即座にカシュガリーに対する裁判を要求、カシュガリー自身は謝罪を表明した上、ニュージーランドに政治亡命を求めた。サウディでは、預言者に対する冒瀆は死罪に値するからである。だが、彼はマレーシアに到着したものの、マレーシア警察によって逮捕され、12日にサウディに強制送還された。

 過去にもイスラームを侮辱、冒瀆した、という事件は多々あった。最近では、2005年にデンマーク誌で、ムハンマドをテロリストに見立てた風刺画が掲載された事件があるが、風刺画を描いたのはイスラーム教徒ではない、西欧の漫画家だ。それ以前には、1989年にサルマン・ルシュディーが書いた小説「悪魔の詩」がコーランを揶揄し、売春婦の名前に預言者の妻の名前を使ったことで大騒動となったが、もとはインド出身のイスラーム教徒とはいえ、ルシュディーは英国籍の無神論者である。いずれの事件も、全世界のイスラーム教徒たちの間で大規模な反発が発生したのは、それが容易に「欧米のイスラームに対する侮蔑」という、歴史的に定着してきた差別意識と結びついたからだ。

 だが、今回の事件ではそうした「欧米の偏見」に原因を探すことはできない。なんといってもイスラーム国家の中のイスラーム国家であり、「両聖地の庇護者」を誇るサウディアラビアの若者が起こした事件である。カシュガリーが「アラブの春」を支持していたという説もあり、宗教もまた、既存の体制や規範に反旗を翻す今のアラブの若者層の、「造反有理」の対象となることを免れない、ということを示しているのかもしれない。

 しかし、ここで注意すべきことがある。この事件に対して、欧米のメディアがこぞって「カシュガリーを守れ」論陣を張ることの逆効果だ。ジャーナリストたちが「報道・発言の自由」を強調することは当然だが、欧米からの短絡的なエールは、再び「欧米の対イスラーム偏見」の構造を持ち込む。特に、「アラブの春」後にチュニジア、エジプトで実施された選挙では、いずれもイスラーム政党が台頭した。そのことに、欧米社会は再び、漠然とした「イスラームの台頭」への不安を掻き立てられている。そういう背景があってこそ欧米はカシュガリーを擁護しているのだ、とみなされがちな構造がある。

 アラブ、イスラーム圏の若者たちが自分たちの社会の内部に反省と改革の目を向け、多種多様な意見を発言し始めたことが、「アラブの春」の最大の成果だった。だが、そうした若者の自由への希求がすなわち「民主化」とか「政教分離」といった「欧米の模倣」を単純に意味しているのだ、と思ったら、それは大きな誤解である。

 若者は、今彼らを取り巻く制約から自由を求めている。しかし、それは今ある別の選択肢を求めているのではない。今ここにない選択肢を探す途上にある若者の、答えを待つだけの余裕と度量が、サウディアラビアにあればいいのだが。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米FAA、国内線の減便措置終了へ 人員巡る懸念緩和

ワールド

タイGDP、第3四半期は前年比+1.2% 4年ぶり

ワールド

チリ大統領選、来月14日に決選投票 極右候補が優勢

ビジネス

アクティビストのスターボード、米ファイザーの全保有
MAGAZINE
特集:世界最高の投手
特集:世界最高の投手
2025年11月18日号(11/11発売)

日本最高の投手がMLB最高の投手に──。全米が驚愕した山本由伸の投球と大谷・佐々木の活躍

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生まれた「全く異なる」2つの投資機会とは?
  • 3
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃度を増やす「6つのルール」とは?
  • 4
    「中国人が10軒前後の豪邸所有」...理想の高級住宅地…
  • 5
    悪化する日中関係 悪いのは高市首相か、それとも中国…
  • 6
    南京事件を描いた映画「南京写真館」を皮肉るスラン…
  • 7
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 8
    レアアースを武器にした中国...実は米国への依存度が…
  • 9
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披露目会で「情けない大失態」...「衝撃映像」がSNSで拡散
  • 4
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前…
  • 5
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 6
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 7
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 8
    『プレデター: バッドランド』は良作?駄作?...批評…
  • 9
    「イケメンすぎる」...飲酒運転で捕まった男性の「逮…
  • 10
    ドジャースの「救世主」となったロハスの「渾身の一…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」…
  • 5
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 6
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 7
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 8
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 9
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story