コラム
酒井啓子中東徒然日記
イエメンに「春」は訪れるか
イエメンのサーレハ大統領は、やけど治療が終わったら無事帰国できるだろうか?
6月3日に大統領官邸を反政府勢力に攻撃されて負傷した大統領は、治療のために隣国サウジアラビアに脱出した。国内の反大統領派はこれを実質的に亡命と見なして、政権交替を進めようとしている。
イエメンは、早い時期からジャスミン革命の影響を受けた国だ。今年1月、大学生を中心としたデモがエジプトに先駆けて組織され、大統領退陣を求める大衆行動が繰り返し展開されていたが、決め手のないまま、半年にわたり一進一退の状態が続いていた。今回の大統領の国外脱出が政権交替に繋がれば、イエメンは三番目の「アラブの春」の成功例となる。
それにしても、逃げた先がサウジ、というのが、イエメンの地政学的な宿命を如実に現している。巨大産油国の王政サウジと、アラビア半島で最も貧しい共和政のイエメン。イエメンが南北に分かれていた冷戦期には、封建王政の雄サウジは、中東で唯一の共産主義国家だった南イエメンを眼と鼻の先に抱えて、左派革命の波が自国に及ばないかと常にぴりぴりしていた。60年代のイエメン内戦は、旧王政派を支援するサウジと、共和制派を支援するアラブ民族主義の旗手エジプトの実質的な代理戦争だった。
しかしそのイエメンも出稼ぎや貿易でサウジに依存し、経済的には従属せざるを得ない。サウジにとってイエメンは脅威、イエメンにとってサウジは面白くないが頭を下げざるをえない地域のボスである。
「金持ち王政産油国」対「貧乏な共和政アラブ」の対立構造を象徴した事件に、湾岸戦争直前のアラブ協力会議(ACC)設立がある。1989年、8年にわたるイランとの戦争を終えて、産油国ながら戦費負担を抱えて一気に貧乏国に転落したイラクは、同じく非産油国のヨルダン、エジプト、イエメンを誘ってアラブ協力機構を結成した。経済協力が名目だが、お目当てが集団で産油国から援助を引き出すことだったのは、明々白々だ。ACCにイエメンが入ったことで、この同盟は「貧乏軍事大国がサウジを取り囲んで脅す」構造となった。当時北イエメン大統領だったサーレハがそれを示唆する発言をして、エジプト外相があわてて「いや、純粋に経済目的ですから」と取り繕う一幕もあった。
湾岸戦争の勃発で、ACCはわずか二年に満たない運命となったが、このACCが対抗の対象とした産油国の地域同盟、湾岸協力会議(GCC)は、その後役割を増して今も大活躍だ。「アラブの春」ではバハレーンにGCC合同軍を派遣して、「春」を潰すのに貢献した。
面白いのは、このGCCが今どんどん拡大していることである。5月、ヨルダンとモロッコがオブザーバー加盟することとなった。GCCはもともとイラン革命の波及を恐れるペルシア湾岸産油国が81年に結成したものだから、ヨルダンやモロッコなどのペルシア湾岸にない国が加わるのは、なんともおかしな話である。
これはすなわち、GCCが目下の「脅威」をイランではなく「アラブの春」だ、と考えているからだ。今やGCCは、変革の波に抵抗する王政諸国の連合体となった。いわば、フランス革命に抵抗する「対仏大同盟」である。さしずめサウジは、反革命・保守派の最後の砦といったところだろう。
かつて革新派を売りに共和制政権を担ってきたチュニジア、イエメンの大統領が、今は封建王政、保守派のドンたるサウジに救いを求める。「アラブの春」は、そんな根本的矛盾を赤裸々に浮き彫りにする。
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