コラム

シリア:アサド政権を倒したくない米国

2011年04月27日(水)20時15分

 五年前、イスラエル軍とレバノンのヒズブッラーが交戦し、すわ第五次アラブ・イスラエル戦争の開始か、と危惧されたときのことである。ちょうどロシアでのG8サミットに出席していた先進国首脳たちは、この紛争にどう対処するか、会議そっちのけでコソコソ話をしていたのだが、当時のブッシュ米大統領とブレア英首相が話している内容が、うっかりマイクがオンになっていて、全世界に放映されてしまった。

 そこでのブッシュの発言が、おもしろい。
 「アサド(シリア大統領)はどうよ。アナン(当時国連事務総長)がアサドに連絡してくれれば、何とかなるんじゃないか?」。

 当時、シリアのアサド体制は米政権にとって、「1979年来の『テロ支援国家』で、『悪の枢軸』イランの同盟国で、『テロリスト』のヒズブッラーを支援し、戦後イラクから逃れた旧サッダーム・フセイン政権の残党を匿い、戦後のイラクに次々にアルカーイダを送り込んでいる」と見なされる、厄介な反米国だった。

 だが、その内実は、上にあげたエピソードによく表れている。良くも悪くもヒズボッラーに影響力を行使できるのはシリアだし、中東和平交渉でもイスラエルにとってアサド政権はお互い手口を知り尽くした相手である。東アラブ地域の要として、シリアの政権が不安定化することは、米国にとってもイスラエルにとっても、望ましくない。ましてや、現政権が倒れて全く未知の相手を交渉相手にするには、あまりにも複雑な地域だ。

 そのことが、オバマ政権に、対シリア制裁への腰を引かせている。3月半ばからシリア南部で始まった反政府デモは、4月に入って一層多くの地域で激しさを増しており、23-24日には各地で120人の死者を出した。アサド政権は戒厳令の解除、首相交替、クルド問題への取り組みなど、国民向けの懐柔策を打ち出したが、効果は見られない。政権側とデモ隊の対立は、ますます妥協点のない、どちらが相手を殲滅させるかの戦いになりつつある。

 こうしたなかで、国際社会の間にはシリア政権への批判が高まり、国連による制裁導入を主張する声も出ている。ロシア、中国が制裁に否定的なのはいつものことにしても、今回は米政権も消極的だ。オバマ大統領が「弾圧反対」と言う一方で、クリントン長官は「シリア情勢には介入しない」趣旨の発言をしている。

 これはひとえに、上に挙げたような、暗黙の相互依存関係が米・シリア間に成立しているからだろう。くわえてシリアは、リビアのカッダーフィ政権のように、反旗が翻った途端西欧ばかりでなく周辺アラブ諸国から見放されたわけではない。次々に軍や高級官僚が国外亡命して政権を見捨てているわけでもない。エジプトのように、トップだけ取り替えて体制は維持、などという離れ技は、政権与党のバアス党が軍を牛耳っているシリアでは無理である。安全策を考えれば、米政権としても「アサド政権に変えて民主化を」とは推しにくいのだ。

 それにしても、そういう事情を百も承知のシリア人たちが、何故あえて立ち上がったのかが、最大の謎だ。弾圧の恐怖を最もよく知る、そして慎重で知られるシリア人のこの決断の背景に何があるのか、研究対象にするに足る興味深い疑問である。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ロシア政府系ファンド責任者、今週訪米へ 米特使と会

ビジネス

欧州株ETFへの資金流入、過去最高 不透明感強まる

ワールド

カナダ製造業PMI、3月は1年3カ月ぶり低水準 貿

ワールド

米、LNG輸出巡る規則撤廃 前政権の「認可後7年以
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 2
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2人無事帰還
  • 3
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 4
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 5
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 6
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 7
    「隠れたブラックホール」を見つける新手法、天文学…
  • 8
    【クイズ】アメリカの若者が「人生に求めるもの」ラ…
  • 9
    【クイズ】2025年に最も多くのお金を失った「億万長…
  • 10
    あまりにも似てる...『インディ・ジョーンズ』の舞台…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「最大の戦果」...巡航ミサイル96発を破壊
  • 3
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥーが解明される...「現代技術では不可能」
  • 4
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 5
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 6
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 7
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジ…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story