コラム
酒井啓子中東徒然日記
リビア:独裁者最後の砦
カッダーフィが、粘っている。
エジプトでの「革命成就」の後、数日後にはリビアでも大規模なデモが発生し、21日には東部にある第二の都市ベンガジが反政府勢力の手に落ちた。その勢いから、カッダーフィの命運も尽きた、との観測が広がったが、それから10日を経た現在、意外にも彼は、しぶとく生き延びている。
リビアは、エジプトやチュニジアほどには簡単にはいかない、ということを示す、いくつかの理由がある。まず、リビアには一切の民主化の経験がない。議会も憲法もなく、ほとんどすべての反政府勢力は国外に出るしか活動の余地はない。カッダーフィ政権は、直接民主主義を基本とし、議員など民意を反映するべき仲介人的存在を否定する。肩書きのない権力者から権力を奪うのは、制度的に難しい。
また、カッダーフィ自身、前政権の王政を倒して、共和制を樹立した現体制の祖である。エジプトのムバーラクは、1952年の共和制革命で成立した軍事政権の四代目大統領だった。だが、カッダーフィは自ら政権を築き、創始者として42年君臨してきた。つまり、カッダーフィを取り除くことはリビア現代史の半世紀を否定するぐらいの大事である、とのイメージを駆り立てて、体制をひっくりかえすことの恐怖を、人々の意識に喚起することができる。
リビアで採用されるさまざまな戦術は、独裁維持の典型的パターンだ。国軍を信用せず、民兵や治安組織、傭兵を対抗させる。旧王制時代の有力部族は徹底して抑圧するが、治安関係の要職には自らの出身部族を配置する。身辺警護には、女性兵士など、他の政治社会組織に一切利害関係を持たない者を起用する。そして反政府勢力が築こうとする新たな体制を混乱させようと、政治犯釈放と称して「ならず者」を街に放つ。
これらはいずれも、同じくスーパー独裁を確立したイラクのサッダーム・フセインがかつて採用した手口だ。つまり、エジプトが「チュニジアでもできたのだからエジプトにできないはずはない」と、政権交替へのハードルを下げたのに対して、リビアは「イラクのフセインですら、米軍につかまるまで粘ったのだから、カッダーフィにできないはずがない」と考えているに違いない。
実際、かつてのイラクとリビアには相似点が多く見られる。特に、1991年のイラクでの反政府暴動の失敗は、参照事例となるだろう。湾岸戦争後、政府軍の巻き返しによって大弾圧が行われ、結果「外国に依存するしかない」と考えた反政府勢力が、12年後に米軍を巻き込んでイラク戦争で政権交替を実現した。そのような形で実現した政権交替が、その後いかに内戦と混乱に見舞われたか、中東の人々はよく知っている。
今、リビアの混乱に対処するために「国際社会からの圧力」が叫ばれている。制裁から軍事介入の可能性まで、これまたかつてのイラクが辿った道だ。湾岸戦争後、フセイン政権を追い詰めるため、飛行禁止空域を設けたり、海外の反政府勢力への支援を強めたりしたが、国内で続くフセインの独裁には何もできなかった。反政府暴動の際、国民を見殺しにした国際社会への不信感は、イラク人の間に根強く残る。結局2003年に、外国の支援を受けた反政府勢力が戦争で政権を奪取したものの、新政権には常に、「外国の手によって据えられた政権」との汚名がついて回った。
独裁政権に対して国際社会がどう対処すべきなのか、という、湾岸戦争とイラク戦争が残した課題に、回答はでていない。今、リビアに関して突きつけられているのは、同じ問題である。
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