コラム
酒井啓子中東徒然日記
バハレーンは「宗派」の枷を越えられるか
チュニジア、エジプトに始まった非暴力の「民衆革命」は、周辺国に広く波及しつつあるが、次のステージでは、激しい流血が避けられない展開になりそうだ。リビアでの反カッダーフィ運動は、すでに21日までに数百人の死者を出し、ペルシア湾の小島バハレーンでも2月14日以降、デモ隊が警官隊と衝突して死傷者が出ている。
新たに反政府運動に火がついたこれらの国々がエジプトやチュニジアと異なるのは、それがデモ隊を「容赦なく鎮圧しうる」政府だ、ということだ。リビアでカッダーフィが、エジプトとは比較にならないほど軍や治安部隊をしっかりと掌握していることはいうまでもない。だが、それ以上に重要なのは、体制側が国際社会の目に配慮する必要性をさほど感じていない、ということだ。もともと、激しい反米・反イスラエルで鳴らした政権である。エジプトのように、体制側もデモ隊も、国際世論を敵に回しては成功はないと認識して、欧米諸国の印象を悪くしないように慎重に事態を収拾しようという、深謀遠慮がない。
完全な親米国家であるバハレーンは、別の理由から「容赦ない」鎮圧に傾斜しうる。それは、周辺のアラブの王政、首長政諸国が一丸となって、バハレーン王政維持を支援しているという安心感からくる。独立以来、アラブ民族主義運動の波にもイスラーム革命にも耐えてきたペルシア湾岸産油国の封建体制を、バハレーン王制の危機が崩壊の引き金を引きかねないからだ。
そもそもバハレーンは湾岸諸国のなかでは珍しく、「民衆運動」が存在する国だ。政治参加要求運動の歴史は独立前の1950年代からと古く、また今回ストを呼びかけて大きな役割を果たしている労働組合は、70年代には労働運動を活発に展開していた。独立二年後の73年には議会が開設されたが、75年に停止されて以来、2002年まで四半世紀以上にわたり、王政に対して議会要求運動が繰り返されてきたのである。
2002年に導入された新たな二院制議会も、民選の下院に対して国王任命の上院の権力が勝り、恣意的な選挙区設定など、問題は山積していた。2006年以降最大野党の「ウィファーク」が議席の四割を確保し、その伸張を危惧した政府は2010年10月の選挙では反政府活動家を大量に逮捕、露骨な選挙妨害を繰り返した。今回のバハレーンの反政府デモは、そうした流れのなかで発生したものだ。単に「貧しい多数派、シーア派の反乱」ではない。
バハレーンの「民衆運動」が直面する壁に、「宗派対立」への問題のすり替えがある。野党伸張の背景に人口の七割以上を占めるシーア派住民の存在があることは確かだが、スンナ派王政はこれを陰に陽に「湾岸の安定を脅かすシーア派の脅威」、果ては「イランの脅威」と結びつけて、体制護持の必要性を国際社会に訴える。エジプトやチュニジアでは素直に「民衆パワー」と賞賛された民主化要求が、バハレーンで「シーア派の脅威」に塗り替えられていくのは、不幸だ。
バハレーンの運動が、「宗派対立」に矮小化されずに展開できるかどうか。「中東革命」がグローバルに拡大できるかどうかの、重要な試金石である。
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