コラム

エジプト:軍とイスラム勢力にまつわる「誤解」

2011年02月02日(水)12時03分

 一週間前、エジプトの反ムバーラク勢力が「怒りの日」に結集したときには、こうも急速に事態が展開するとは予想できなかった。3日ごとに組織される数十万規模のデモ、外出禁止にも従わず終日ムバーラク退陣を叫ぶ若者。米政権も現政権を見限り、30年間のムバーラク大統領の治世は終焉を迎えつつある。

 「ムバーラク政権の独裁に反対する民衆に、軍も共感し、反政府勢力のムバーラク下ろしが勢いを増しているが、野党のなかで最も強力なイスラーム主義のムスリム同胞団が新体制下で支配的になり、イランのようになるから危険だ」――。これまでの報道振りをまとめると、こんな感じだろう。だが、このロジックに強い違和感を覚える。

 第一は、軍に対する認識である。ムバーラク政権は、52年以来続いてきた紛うことなき軍事政権である。52年の共和制革命を担った主役として、以来軍は支配層の中核にあった。ムバーラク批判が強まるにつれて、軍が真っ先に考えたことは、ムバーラクとともに心中はするものか、ということだっただろう。特に、近年ムバーラクが息子ガマールを後継者として重用してきたことから、支配層の間で、ビジネス界を中心とするガマールの支持基盤と、過去半世紀以上支配エリートの座に君臨してきた軍との間で、相克が生まれていた。

 ムバーラクとガマールが去ったとしても、支配エリートとしての軍の特権を失わないように、どう振舞うべきか。それが、民衆の反感を買わないデモ対応につながった。そう考えると、結局のところ、今のエジプトで起きていることは、支配層が「しっぽ」ならぬ「頭」だけ切って、生き延びていこうとしているように見える。軍や警察が姿を消すと略奪が起きるよ、というのも、存在意義をアピールする材料だ。

 政権交替にまつわる妥協と調整が、旧態依然としたエリート間調整の域を出ないように見えるのに対して、今回の動乱で新しいのは、反政府デモのあり方だ。イスラエルや米政治家の一部は、「ムバーラクが倒れたらムスリム同胞団が出てきて、反米・反イスラエルに転ずる」と危機感を煽っているが、今、デモで掲げられるスローガンに反米、反イスラエルは一切出てこない。イスラーム色よりも世俗的、左派的色彩が前面に打ち出されている。

 逆にこの反政府運動は、ムスリム同胞団を含めた既存の野党、政治勢力と距離を置いているようだ。デモ中心となる「4月6日運動」とは、2008年に始まった、緩やかな無党派反政府ネットワークだが、彼らは昨年の人民議会選挙で既存野党に共闘を呼びかけられたが、どことも共闘せず、選挙にも参加しなかった。反ムバーラクであると同時に、既存の政党のあり方にも疑義を投げかけているところが、この運動の新しいところである。なので、反政府運動の拡大=ムスリム同胞団の強さ、ということには、決してならない。
 
 政権打倒を求める民衆パワーは、東欧の民主化革命や一年半前に民主化を求めたイランの緑の運動にように、これまでのアラブ世界にはまれな新しい市民運動である。だが、転覆後の政権作りには、これまでと変わらず、国内政治エリートの特権維持と、地政学上の利害関係を第一に考える欧米諸国の外交政策が、決定要因として機能している。この動乱と熱狂、興奮は、新しいワインを古い袋に入れて収拾されるのだろうか。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:米テキサス州はしかで死者、ワクチン懐疑派

ワールド

アングル:中国、消費拡大には構造改革が必須 全人代

ワールド

再送米ウクライナ首脳会談決裂、激しい口論 鉱物協定

ワールド

〔情報BOX〕米ウクライナ首脳衝突、欧州首脳らの反
MAGAZINE
特集:破壊王マスク
特集:破壊王マスク
2025年3月 4日号(2/26発売)

「政府効率化省」トップとして米政府機関に大ナタ。イーロン・マスクは救世主か、破壊神か

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    テスラ離れが急加速...世界中のオーナーが「見限る」ワケ
  • 2
    イーロン・マスクへの反発から、DOGEで働く匿名の天才技術者たちの身元を暴露する「Doxxing」が始まった
  • 3
    イーロン・マスクのDOGEからグーグルやアマゾン出身のテック人材が流出、連名で抗議の辞職
  • 4
    「絶対に太る!」7つの食事習慣、 なぜダイエットに…
  • 5
    米ロ連携の「ゼレンスキーおろし」をウクライナ議会…
  • 6
    ボブ・ディランは不潔で嫌な奴、シャラメの演技は笑…
  • 7
    細胞を若返らせるカギが発見される...日本の研究チー…
  • 8
    日本の大学「中国人急増」の、日本人が知らない深刻…
  • 9
    【クイズ】アメリカで2番目に「人口が多い」都市はど…
  • 10
    「売れる車がない」日産は鴻海の傘下に? ホンダも今…
  • 1
    テスラ離れが急加速...世界中のオーナーが「見限る」ワケ
  • 2
    細胞を若返らせるカギが発見される...日本の研究チームが発表【最新研究】
  • 3
    障がいで歩けない子犬が、補助具で「初めて歩く」映像...嬉しそうな姿に感動する人が続出
  • 4
    富裕層を知り尽くした辞めゴールドマンが「避けたほ…
  • 5
    イーロン・マスクへの反発から、DOGEで働く匿名の天…
  • 6
    イーロン・マスクのDOGEからグーグルやアマゾン出身…
  • 7
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
  • 8
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 9
    「絶対に太る!」7つの食事習慣、 なぜダイエットに…
  • 10
    東京の男子高校生と地方の女子の間のとてつもない教…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    テスラ離れが急加速...世界中のオーナーが「見限る」…
  • 5
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 6
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 7
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 8
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 9
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 10
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story