コラム

2011年「宗教対立」の幕開けか

2011年01月12日(水)12時09分

 地中海に沈む鮮やかな夕陽を眺めながら、ベイルートの海辺のカフェでこの原稿を書いている。年明け早々から国際会議開催のためにこの地を訪れているのだが、昨年秋ごろから懸念されていた宗派間対立もなく、無事会議を終えたところだ。

 レバノンは不思議な国である。キリスト教徒、イスラーム教のスンナ派とシーア派、ドゥルーズ教徒と、歴史的に複数の宗派が存在し、70年代以降15年に渡り激しい内戦を繰り広げながら、各派がそれぞれの文化的、歴史的特徴を保って共存している。教会から鐘が鳴りわたる傍らで、モスクからは礼拝を呼びかけるアザーンが響く首都ベイルートは、内戦の傷跡を残しつつも、洗練され活気に満ちた街並みとして復活している。

 そのレバノンで、このところ「宗派対立再燃か」と懸念されたのは、2005年のハリーリ首相暗殺事件に関する法廷が年末に開廷されるものと予定されていたからだ。誰が犯人か、どういう組織が背後にいるのかなど、明らかにされるであろうことを警戒して、各派の諸政治勢力が再武装し、緊張が高まった。豊かな文化的多様性を作り上げる複数の宗派、民族の共存が、一転して殺伐とした宗派間の権力抗争に変わるのは、政治家が宗派的アイデンティティを利用して政治的駆け引きを始めたときだ。宗教や文化は生活を多彩に色どるものから、政治動員の手段と変ずる。

 この一週間、心配された危機はレバノンには訪れなかったが、その一方で、中東の他の地域の宗派対立が火を噴いた。正月に発生したエジプトでのコプト教会の爆破事件である。これまで目立った宗教対立のなかったエジプトだが、ここ数年人口一割以上を占めるコプト教徒が過激派の攻撃対象となり、暴力事件が頻発している。だが、これを単に宗教間の相違から自動的に発生したもの、と考えると間違いだ。教会建設の制限などコプト教徒に課される政策上の制約や、彼らのおかれた法的、政治的劣位が問題の底流にある。

 問題なのは、こうした宗教対立の形をとって噴出する衝突を解決するのに、手っ取り早い方法として「分離」が目指されがちなことだ。紛争の発生は、多様性そのものが原因ではなく、多様性をうまく統治できない政治体制、民主主義の欠如に問題がある。だが、統治体制自体の問題の解決を棚上げにして、対立する宗派や民族集団間をとりあえず「引き離す」、そしてさらには「分離独立」という結論に飛びつきがちだ。
 
 そんな懸念を象徴するのが、スーダンで9日実施された国民投票の結果である。キリスト教徒が多数派を占める南部スーダンで、八割の住民がイスラーム主義色の強い現政権下のスーダンからの分離に賛成を表明した。新たな国家建設は南部住民には夢抱かせる決断となろうが、問題の根源であるスーダン政府の統治の失敗という問題は棚上げにされたままだ。分離せずスーダン全体を民主化すべきとして、改革を模索する動きがなかったわけではない。だが、分離はそうした多様性維持に向けた意気込みを逆に損ね、根本的な紛争要因が省みられずに放置されてしまう。
 
 2011年の中東は、対立と分裂の年になるのだろうか。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

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