コラム

暑さは宗教判断をも溶かす?

2010年09月01日(水)14時22分

 9月というのに、猛暑だ。気象情報が「気温29.5度」と言うのを聞いて、「嘘だ、この暑さは絶対30度超えてる!」と疑うのは、私だけではないに違いない。だが「超熱帯夜と公表すると何か不都合でもあるのか?」などと勘繰るのは、イラク研究者の性かもしれない。

 日本でこれだけ暑いのだから、中東の猛暑は、まさに酷暑。灼熱の太陽の下にいると、体感気温は60度近いほどだ。だが、そのイラクでは、「気温49度」の公式発表が続く。気温が50度を超えると屋外活動が危険ということで、公休になるはずなのだが、どんなに暑くても50度以上の気温が公式発表されることは、今も昔も、ない。国民を働かせるために政府がデータを操作しているのだ、というのが、専らのウワサだ。

 政府の規則より融通が聞くのが、ファトワーといわれるイスラーム教の宗教判断かもしれない。イスラーム教徒の間では、8月半ばからラマダンと呼ばれる断食月が始まっており、日中の飲食が禁じられているが、ラマダンの開始に当たってアラブ首長国連邦で「猛暑の間は日中断食を中断して水を飲んでもいい」とのファトワーが下された。ラマダン月は太陰暦のイスラーム暦に基づくので、毎年季節が変わる。今後最低でも五年間は断食月が真夏で日照時間の長い季節に当たるため、こうした健康上の配慮が必要になるわけだ。

 ファトワーというと、9・11以降、ビンラーディンの反米発言など、宗教指導者の強硬な政治的姿勢表明のこと、と思われがちである。だが、実際にファトワーのほとんどは、日常生活に関わる内容についての宗教家の判断だ。

 イスラーム・オンラインというイスラーム教徒向けの有名なサイトがある(英語版もある)が、その「ファトワー」のコーナーを見ると、実に面白い。信徒からさまざまな質問が寄せられ、それに対して宗教家、学者が回答するのだが、法律相談所の「教えてgoo」版、といった風情だ。その内容は、「礼拝の前に手足を洗うのを忘れたんだけど、ちゃんと洗って礼拝をやり直さなきゃならないか」といったイスラーム教徒の質問もあれば、「バスの運転手が勤務中礼拝を始めたせいでバスが遅れたんだけど、こんなことでいいのか」といった非イスラーム教徒の質問もある(ちなみに後者の質問への回答は、「礼拝は義務だけど、他人の生活の妨げになる行為はダメ」というものだ)。

 おもしろいのは、「ピザ屋で働いているが、イスラームで禁じられている豚肉を使ったピザをデリバリーすることはよくないことか」という質問に、ひとりの宗教家は「そんなところで働くのはよろしくない」と答えているが、もうひとりは「そこでしか働けないなら仕方がないけど、もっといいところに就職できるならそうしなさい」と回答している。

 モスクでひとりの宗教家の意見だけ聞いて育つ時代から、イスラーム社会はウェブでセカンドオピニオンを得られるIT時代に変貌している。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米バークシャー、24年は3年連続最高益 日本の商社

ワールド

トランプ氏、中国による戦略分野への投資を制限 CF

ワールド

ウクライナ資源譲渡、合意近い 援助分回収する=トラ

ビジネス

ECB預金金利、夏までに2%へ引き下げも=仏中銀総
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    メーガン妃が「アイデンティティ危機」に直面...「必死すぎる」「迷走中」
  • 4
    深夜の防犯カメラ写真に「幽霊の姿が!」と話題に...…
  • 5
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 6
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 7
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 8
    トランプが「マスクに主役を奪われて怒っている」...…
  • 9
    細胞を若返らせるカギが発見される...日本の研究チー…
  • 10
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 4
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 9
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 10
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
  • 10
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story