コラム

固定為替相場への回帰で日本経済は救えるのか

2012年09月14日(金)14時33分

 自民党の総裁選挙に立候補した林芳正氏は、党内きっての政策通として知られているが、彼が出馬に際して掲げた政策提言には、多くの人が驚いた。「多数の国家が人為的に自国通貨安を実現している現実を踏まえ、自由変動相場制の見直しを提言し、その実現を目指します」と書かれていたのだ。

 自由変動相場制という言葉はないので、これは今、普通に行なわれている変動相場制のことだろう。石原伸晃氏も総裁選出馬の記者会見で「私は金融・財政のスペシャリストだ」と自称し、「為替政策がデフレに一番きくことは誰もがわかっている」とした上で「中国や韓国などの通貨がドルに連動しているので下がらず円高になる」とし、その対策として「新たな国際協調の枠組み」が必要だと主張した。

 1971年から40年以上にわたって先進諸国が採用してきた変動相場制から日本が離脱するとなると大変なことだが、これにはどういうメリットがあるのだろうか。

 まず問題は、本当に今は円高なのかということだ。もちろん名目為替レートは1995年と並ぶ歴史的な最高水準(14日朝で77.5円)だが、各国の物価水準などを勘案した実質実効為替レートで見ると、図の青線ように1995年より30%ぐらい下がっている。この17年間に、アメリカの物価は30%以上あがったのに対して日本の物価上昇率はほぼゼロだったので、他の条件がすべて同じなら円がドルに対して30%ぐらい高くなるのは当然で、現実のレートはほぼその通りになっている。

ドル/円の名目為替レート(赤)と実質実効為替レート(青)
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 物価水準の差で起こる円高は、実体経済に影響を与えない。たとえば1ドル=80円のとき、200万円=2万5000ドルで買える自動車の価格が、デフレで180万円に下がったとしよう。他の条件が同じなら円は10%強くなるので、1ドル=72円になる。このとき180万円÷72=2万5000ドルとなって、ドル建ての価格は変わらない。したがってこの自動車の海外市場での競争力も変わらない。

 もちろん、実質実効レートがすべてだというわけではない。これは世界全体をならしたレートなので、成長率の高い新興国での競争条件は日本がかなり不利になっている。新興国は(中国を含めて)自国の産業を振興するために、人工的に為替レートを抑えたり、ドルに連動させたりするケースが多い。これは林氏や石原氏のいう通りだ。

 しかし第二の問題は、「国際協調」で固定為替相場に戻せるのかということだ。かりに「正しい為替レート」を決めたとしても、それを守ることはむずかしい。固定為替相場では、通貨が弱くなって実勢レートとの乖離が大きくなると、投機筋のターゲットになるからだ。1992年にポンドがERM(欧州為替相場メカニズム)から離脱したときも、ジョージ・ソロスが100億ドル以上のポンドを空売りし、10億ドル近い利益を得たといわれる。

 スイスが無制限の為替介入でスイスフランを維持したことがよく成功例にあげられるが、これは小国だからできることだ。スイス国立銀行が買っている外貨(主としてユーロ)は毎日20億ドル程度だというが、これは毎日1兆ドル近くが取引される東京外為市場では雀の涙である。日本政府の数百億ドルの介入でも効果は限定的で、長期間にわたって続けることはできない。

 大きいのは政府が「相場は適切でない」と宣言するアナウンス効果で、これは相場が正しいレートから大きく乖離していればきくが、そうでなければ効果は小さい。一時的に乱高下するときの「スムージング・オペ」には意味があるが、政府が目標とする為替レートを維持することは不可能なのだ。「国際協調」といっても、欧米にとっては円高は望ましいので、利害は一致しない。

 本質的な問題は、円安にすれば日本経済の問題は解決するのかということだ。たしかに輸出産業は、一時的には楽になるだろう。しかしGDP(国内総生産)の中で輸出の比率は14%程度。日本経済の低迷の最大の原因は、生産年齢人口が1995年をピークに毎年1%近く減り続け、国内市場が縮小していることなのだ。これをカバーするには資本・労働などの生産要素を移動して生産性を上げる必要があるが、民主党政権は一貫して労働市場の規制強化を続けてきた。

「デフレ」といわれる現象は、こうした不況の結果であって原因ではない。国内経済の弱さを輸出がカバーする構造は、いつまでも続けることはできない。まして「日銀が金融緩和すれば円が安くなる」などというのは幻想である。金融政策が為替レートに影響を及ぼすのはインフレによってだが、ゼロ金利ではインフレが起こせないので、日銀が為替レートを変えることはできない。

 財政が行き詰まると、コストのかからない金融政策にプレッシャーが加わるのはどこの国も同じだが、為替レートを人為的に固定して輸出産業を保護することは好ましくないし、可能でもない。日本経済の最大の問題は(世界的にみてまだ競争力の高い)輸出産業ではなく、規制に守られて生産性の低いサービス業や農業にある。国内を改革することなしに、円安だけで日本経済をよくすることはできないのだ。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

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