コラム
ふるまい よしこ中国 風見鶏便り
香港、「白手興家」時代の終えん
「なんでまたこんなことになってしまったんだろう...?」。きっと今、ドナルド・ツァン(曾蔭権)香港特別行政長官はそう思い続けているはずだ。
2005年に香港特別行政区の初代行政長官だった董建華氏が「健康不安」を理由に任期途中で辞職した後、行政長官が外遊や休暇などで香港不在時にその代理を務める政務長官の職にあったツァン氏が二代目行政長官に格上げされた。しかし、香港の憲法ともいえる「香港基本法」はこの時、「行政長官の任期中の辞職」を想定した後任人事について規定がなかったため、代理行政長官を格上げして董氏の任期終了(~07年5月)まで代行させるべきか、いやそれでは「民意」を得ていないからやはり正式な二代目行政長官の選挙を前倒しで行うべきだ、と、香港政府及び中央政府でさまざまな議論が噴出した。
とはいえ、その時「民意だって? おこがましいやつらだ」と市民は考えていた。というのも行政長官は香港市民の直接選挙ではなく、中国政府が任命した全国人民代表大会や政治協商会議の香港代表や、業界別に行われた選挙で選出された人からなる「選挙委員」800人によって選出されることになっていたからである。「業界別」といえば市民を代表しているかのように聞こえるが、企業のトップや業界名士のみにしか投票権がなく、また専業主婦や学生は投票するための「業界」を持たず、「民意」どころか明らかに「選ばれた者たち」を代表する選挙なのである。
初代長官董氏の辞任の裏には、この中途半端な行政長官選挙を巡る社会的あつれきも理由の一つとして挙げることができる。香港は03年に知らないうちに中国から持ち込まれたSARS(重症急性呼吸器症候群)の広範囲な流行によってWHOに渡航禁止地区に指定され、社会機能が完全マヒしてしまうという前代未聞の事態を経験した。国内のSARS流行情報を当初握りつぶした中央政府はその後あっさりと事実を認めたが、その知らぬ存ぜぬのおかげで大被害を被った香港市民たちは激怒、同年7月1日(香港の主権返還記念日)に「香港に自治を!我々の手で(中国中央政府に物申すことのできる)行政長官を選ばせろ!」と叫んで50万人が街を練り歩いた。上述のように一部の社会エリート(=中国と経済利益を共有する人たち)による「選挙委員」によって行政長官に選ばれた、自身も大企業の経営者である董氏は明らかに「中央政府のご機嫌取り」あるいは「傀儡」だと考えられていた。
ならば、ツァン氏はどうなのか。実のところ、後任にツァン氏の名が挙がったとき、わたしは少なからず驚いた。1989年の天安門事件以来という、大規模な50万人デモにもかかわらず直接選挙の早期導入をさまざまな理由をつけてはぐらかし続け、市民を翻弄した中央政府が彼を受け入れるとは到底思えなかったからだ。その理由はいくつかあった。
まず、彼は67年にイギリス統治下の香港政府(「香港政庁」と呼ばれた)に行政主任、つまり当時の香港公務員の現場責任者としては最も低い地位で入庁し、95年にイギリス人のパッテン香港総督の下で初めての華人財政長官(「財政司」)に上り詰めたという、「植民地政府生え抜き」の公務員だった。97年には主権返還(7月1日)前日の6月30日に、そのまま中華人民共和国香港特別行政区政府の財政長官に就任することがすでに決まっていたにもかかわらず、イギリス女王による叙勲を受け入れた。このあくなき「栄誉」追求のしたたかさは、決して中国政府にとって好ましいものではなかったはずだ。
だいたい、香港返還に関する中英折衝の席で、中国側代表が「千古の罪人」と罵ったほど嫌ったパッテン総督の「手下」としてイギリス植民地政府側に座っていたツァン氏を、中央政府はどこまで信用することができるのか(ちなみに彼の同僚で、植民地政府最後の政務長官を務め、民間で行われた模擬初代行政長官選挙ではトップ人気だったアンソン・チャン女史は「返還後も香港のために尽くしたい」という理由でイギリスからの叙勲を断ったとされる。しかし、その彼女を中国政府は一貫して「西洋主義の手先」と、敵視し続けた)。
次に、ツァン氏が敬虔なカトリック教徒であることだ。衆知のように共産主義と宗教は相いれないところが多い。ローマ教皇をいただき、礼拝日だけではなくなにか大事があると必ず教会で祈るというツァン氏を、どう考えても中央政府が受け入れるとは思えなかった。
三番目に、これは最初の理由とも関係するが、彼の役割はこれまで政治家ではなく、ずっと「公僕」だったこと。もちろん世界には公務員出身の政治家はごまんといるが、植民地時代には政治家がまったく存在しなかった香港で、長い間公務員として働いてきた彼にただでさえ手ごわい中国を相手に、どこまで香港の自治を守れるのか。簡単に言えば、「中央政府の公僕」になり果てはしないか、ということだった。実際に返還前後の香港では、「返還なんてへっちゃらさ、主君がイギリスから中国に変わるだけ」というブラックジョークが多くの人の口に上っていたのだから。
四つ目は、彼自身はその知名度はともかく、香港政庁時代からあまり市民にウケがよくなかったことだ。公衆の前に姿を現してもやぶにらみ顔でほとんど柔らかい表情を見せない。笑ってもひきつったような笑いを浮かべるだけで、その横には常に「陳笑顔」と呼ばれ、華やかな雰囲気を振りまくアンソン・チャン女史がいたためにさらに分が悪かった。唯一「陳笑顔」に対比して、彼がイギリス貴族張りの蝶ネクタイ(=Bow tie)を愛用していたことから「ボウタイ曾」というニックネームがついていたことが市民の親近感を表していたともいえる。だが、この呼び名にも「なんか気取った、いけ好かないやつ」という響きがあった。
その一方で、確かに当時彼こそが最適任ともいえる人選であったことも認めるべきだろう。
その理由の一つは、董氏の突然の辞任に中央政府にも理想とする後任がいなかったことだ。中央政府としては、「香港自治」とはいえども香港が中央の意思に反して独り歩きしないよう自分たちの意思が反映されることが望ましい。その上で対外的には「中央政府の委任」とはっきり指差されないような人物が好ましかった。植民地政府下出身といえども返還後も政府内に残り、中央政府ともコミュニケーションを取ってきた、実質ナンバー2であるツァン氏は理想的な位置にいた。
二つ目は、生粋の政府内育ちであるツァン氏が、香港政府内の構造に精通していたこと。これは前任者の董氏にも太刀打ちできない、「政府育ち」のツァン氏の強みだった。
そして三番目は、前述したとおりツァン氏自身の香港における知名度だ。イギリス人優遇の植民地政府下で初の華人財政長官就任など常に華人公務員のトップを歩んできた彼は間違いなく、香港市民に広くその存在を知られている。彼がそのまま行政長官になるというシナリオは、突然現れたダークホースが就任するよりも自然な流れといえた。
さらに「香港自治」という意味で彼の行政長官就任が説得力をもったのは、彼自身のバックグラウンドだった。
上海生まれで家業と財産を持って香港に移民してきた董氏とは違い、ツァン氏は1944年に香港の警察官の長男として生まれた。弟のツァン・ヤムプイ(曾蔭培)氏はその父の跡を継いで警察官となり、警務署署長(警視総監に相当)を務めたこともよく知られている(蛇足だが、このヤムプイ氏が兄であるツァン氏を「彼には政治は分からない」と評したことがあるらしい)。香港政庁入りする前に一度薬品会社のセールスマンとして働いたこともあり、つまり親や家庭の権威を借りることもなく、努力しながら一歩一歩自分の道を切り開いてきた、典型的な「白手興家」(空手から身を興す)的香港人だった。
この「白手興家」という生き方こそ、かつて香港人にとっての理想だった。1940年代に日中戦争の戦火を避けて香港に逃れ、中卒の学歴でサラリーマンから始めてプラスチック工場を開き、今や世界富豪ランキングにも名を馳せる香港の不動産王となったリー・カーシン(李嘉誠)氏などは80年代、90年代の香港人の憧れであり、目標だった。誰しもがリーの名前を聞くと、にっこり笑って親指を立ててガッツポーズをとる、それほど「白手興家」は香港人の「核心価値」だった。
しかし皮肉なことに、その「白手興家」の一人であるツァン氏が無事に董氏の残り任期を終えて正式に「選挙委員」によって行政長官に選出された07年から、香港人の「核心価値」である「白手興家」が色あせ始めた。
その前提には、主権が中国に返還された後、中央政府が香港の治政能力を政府ではなく、産業界に振り分けたことがあった。前述したように産業界主導で行政長官を選ばせることにより、産業界の発言力を高めた。その結果、香港で最も力を持っていた不動産業界、金融界などの政治に対する発言力が植民地時代に比べて飛躍的に増大し、政策に大きな影響を与えるようになり、業界に不利な低収入家庭向けの公共賃貸住宅建設や金利政策などはすべて退けられ、彼らの勢力拡大を許してしまった。
そして住宅価格は高騰し、香港市民がそれを買えなくなると、香港政府は中国の金持ちに向けた「香港居住権」付き物件販売を認め、殺到した中国からの買い手のおかげでさらに物件が高騰、香港市民を苦しめた。さらに住宅購入を一生の目標とする香港市民の不満に対して、不動産王のリー氏が「がたがた言うようなら、わたしはこのまま香港への投資を引き揚げて他国に移してもいいんだよ」という脅しにも似た言葉を発したことで、不動産業者と手を組んだ政府に対する市民の怒りが再び爆発。リー・カーシン氏は一挙に「白手興家」の理想モデルから、「地産覇権」(不動産覇権)と呼ばれる悪の権化となった。
残念ながら、リー氏ら「香港モデル」と付き合いが長く、またすでに制度的にも産業界に首根っこを押さえられていたツァン氏は、このような動きに対してまったく無策であった。つまり、就任時に彼の欠点に対して感じていた不安がここで的中した。そして市民の不満はますます拡大しており、香港中文大学が市民に対して行ってきた「社会不安」についての調査によると、政府に対する不満を挙げた市民の割合は2008年には31%、10年には56%、そして今年2月初めに行われた調査では67.6%の人たちに達している。
それはすでに以前このコラムでも書いた記事「香港の不安」や「香港のモブ活動に思うこと」でご紹介したような形で社会に噴出している。しかし、相も変わらずツァン行政長官が率いる香港政府はカンフル剤を打てずにいる。そのツァン氏の任期が今年6月末に切れるのに伴って今月25日には3代目の行政長官を選挙委員が選ぶ選挙が行われる。しかし、現香港政府内から立候補した唐英年・元政務長官、そして梁振英・行政委員会招へいメンバーに対しても、市民から激しい不信任の声があがっている。
そしてそれはすでに怒りから執念に変わり、中央政府の「内示」をすでに取り付けたと噂され、つい最近までほぼ当選確実と見られていた唐英年候補に不倫や自宅の違法改造という事実があること、そして梁振英候補にも選挙委員の贈賄疑惑などがあることをあぶり出し、「選況」は今や混戦状態に陥っている。その騒ぎの中、さらに香港社会に打撃を与えたのは、引退目前のツァン行政長官の汚職容疑が暴露されたことだった。
次々と芋づる式に暴露された話によると、今年2月の休暇に夫人とタイのプーケットで過ごした際に香港人富豪のプライベートジェットやクルージング船で接待を受けたこと、中国・深セン市にある高級住宅を退職後の住宅用に特別価格で賃貸契約を結んでいたこと、不動産開発業者からランニングマシーンを譲ってもらったこと、07年の休暇でマカオの豪華カジノホテルに宿泊してカジノ関係者の歓待を受けたこと...など、メディアが根掘り葉掘り探り出してきた話題に香港は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
前述したようにツァン氏の父親は警官で、また弟は香港の警視総監に相当する職についた人物だ。汚職まみれと言われる中国に対峙しながら、そして香港人があこがれ続けた「白手興家」の偶像が「地産覇権」という悪人に変わっても、香港人は世界でもトップの位置にランクする、香港の「クリーンさ」を誇りにしてきた。それが商業都市香港の強みだと、誰もが信じてきたのである。それを生え抜きの公務員だったツァン氏自身が破ったのか...
連日の激しい非難にさらされたツァン氏は先月末、立法局議会に立ち、涙を流しながら市民に謝罪し、しかし実際にはジェットやクルージング船利用には市場価格の金額を支払ったこと、そして深センの住宅はすでに解約したこと、ランニングマシーンは譲り受けたのではなく借りただけであり、カジノで接待を受けた事実はない......などと説明した。
......実のところ、わたしはこの一連の騒ぎに少し呆れ、そして同じくらいに戸惑っている。ツァン氏の汚職の実態は、香港に設けられた汚職調査の独立機関「廉政公署」がすでに立件して調査に乗り出しており、今後明らかになるだろう。だが香港市民は退官間近いツァン氏をここまで追い詰めてどうしたいのだろうか。自分たちの声を無視され、ほっておかれた市民たちの怒りはよく分かる。しかし、このまま非難合戦、暴露合戦に執念を燃やしても香港は前に進めないのではないか。
ここで明らかに言えるのは、かつての香港人の希望「白手興家」はすでに敗れ、そして香港人同士の「核心価値」も消え去った。香港社会のために45年間務め上げ、かつて「典型的な香港人」だったツァン氏をその退官とともに葬り去れば、香港は新しい時代に入っていくことになるのだろう。だが、その時代を人々はどんな時代にしたいのか、まだまだその「核心価値」とやらは見えない。
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