この疑問に答えてくれたのは、丹下健三が手がけた代々木プールの構造設計に参加した経歴を持つ故川口衞(まもる)先生で、ミュンヘンには〈イスマニングの無線木造塔〉なる高さ164mもの木造通信塔があり、遠くから眺めると鉄骨造にしか見えないが、近づくとただの木造で、防腐剤も塗らずにボルトで締めただけの作りに、木の腐る国から来た構造設計者としては信じられぬ思いがしたという。
作られたのは1934年で、ヒトラーの台頭した時期にあたり、第一次世界大戦の敗戦を機に既に始まっていた鉄材不足を補うためだった。
見に行こうと思いながら日を送るうちに、グラグラ揺れて周囲の住民が不安がるから壊されたが、ニュースにもならないし、かの地の構造技術者が学術調査をすることもなかったらしい。
1930年代のドイツには190mもの高塔もあったというから、50年しても100年しても木は腐らないらしいが、見ないことには......とモヤモヤしていると、ポーランドに1つ残っているとの情報を得て、2年前、壊されぬうちにとすぐ訪れた。それが〈グリヴィツェのラジオ塔〉で、190m、164mには劣るが、111mもただごとではないし、遠目には鉄骨、近づくと木造というのも同じ。
幸い、これはポーランドの歴史的記念物として末永く残されるようだ。なぜなら、第二次世界大戦前までこの地はドイツ領で、この木造塔を使ってヒトラーは反ヒトラーのニセ放送を流し、それを理由にポーランドに侵攻しているからだ。
これだけ垂直方向に高い木造の構造が可能ということは、横に倒して水平方向にも長い建物が原理的には可能となる。高さに相当する水平の長さのことをスパン(柱と柱の間の距離)と呼び、ドイツの建築界は木造の大スパン構造に取り組み、ジベルなどの小鉄片と小さな木造部材をうまく組み合わせて少量の木材で大きなスパンを可能にする。
工場や倉庫をはじめ集会場といった本来なら鉄骨がふさわしい大スパン、大空間を木造で作ることに成功する。
この成功をドイツ以上に鉄不足に悩まされていたドイツの同盟国の木の国が見逃すわけはなく、直ちに取り入れ、「新興木構造」と名付け、軍需工場や飛行機格納庫や体育館などで実践し、成果を上げている。
しかし、ドイツも日本も戦争に敗れ、木を駆使して時に高く時に大きな空間を作る技術は一時のアダ花として消えてしまった。
もし、ドイツと日本でこの技術が戦後も生き残り、建築界もさらに工夫を加えていたら、と想像する。腐りやすい日本の木造も戦後の化学工業の力を以ってすれば、木を腐らなくする塗料の発明などそう難しくはなかったし、構造技術を駆使して超高層ビルも可能になっただろう。
現在、にわかに注目されたおかげで腐らない木材も木造超高層も実現へと近づいているが、戦時下の新しい木造のあり方がアダ花で終わらず、その成果が継承されていたなら、日本の木造建築は今よりずっとずっと豊かになっていたに違いない。
藤森照信(Terunobu Fujimori)
1946年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学建築学専攻博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学建築学部教授等を歴任。専門は建築史学。著書に『建築探偵の冒険・東京篇』(筑摩書房、サントリー学芸賞)、『タンポポ・ハウスのできるまで』(朝日新聞社)、『天下無双の建築学入門』(筑摩書房)、『歴史遺産 日本の洋館』(講談社)など多数。
『アステイオン』101号
公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
CCCメディアハウス[刊]
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)
vol.101
毎年春・秋発行絶賛発売中
絶賛発売中