János Starker, renowned cellist and teacher, leading a master class, Temple University, April 6, 2009. dwwebber/CC BY-SA 2.0
作家にとって、執筆に入る瞬間というのは、静まり返った道場に足を踏みだすのに似た緊張感がある。ふだんは不規則な生活を送る私も、執筆の期間だけはルーティンに従う。
まずは夜明けとともに「アシュタンガ」という流派のヨガを90分。運動量の多いヨガで、集中力を高めるにはもってこいだ。汗を流し、朝食をとって書斎にこもる。集中の続くかぎり書き続けるが、だいたい夕方には力尽きる。そこから軽い筋トレと軽食を挟んで、夜は音楽を聴く。
音楽は、時々の執筆のテーマに合わせて作家を決め、とことん聴き続ける。リラックスのためではない。演奏という内なる表現にインスパイアされる瞬間を求めてのこと。だからテーマへの集中が途切れることはない。十分な睡眠も含めて24時間、ルーティンの中で自分を高める。
11月、『透析を止めた日』という医療ノンフィクションを講談社から上梓した。透析患者だった亡き夫の体験を元に医療界への取材を行い、日本の透析医療に一石を投じるために書いた。初めて自分自身をも素材として晒すことになり、双肩に感じる重みはこれまでにないものがあった。
この特別な仕事に私が伴走をお願いしたのは、バッハだ。宗教音楽の要素が色濃く、旋律に神への祈りが滲むことに救いを求めたのかもしれない。あらゆる作品を聴いてみたが、終盤は無伴奏チェロに落ち着いた。チェロは人の声にもっとも近い音を出す楽器といわれ、重く優しい音色が深く胸に沁み込むよう。
この間、繰り返し手に取った名盤がある。今世紀最高のチェリストのひとり、ヤーノシュ・シュタルケルのものだ。原稿が仕上がるころには、生まれ変わったらチェリストになろうと思うほど感化されていた。
ハンガリー生まれのシュタルケルはユニークな演奏家だ。たとえば自分の胃袋を語り手にして自身と音楽の関係性を痛快に綴ったり、舞台の上でスコッチを傾けながら聴衆と対話を重ねたり、世界中に多くの弟子を育てた教育者としても知られている。
『ヤーノシュ・シュタルケル自伝』(愛育社、2008年)は、わが家の書斎の中でも大切な一冊だ。シュタルケルの半生は、第二次世界大戦のファシズムの嵐の中にあった。
vol.101
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