思わぬアクシデントに、演奏者のマーク・コソヴァーさんは動じることなく自分の手元を静かに見つめたあと、何も言わずに舞台袖に消えた。数分ほどして新しい弦を手に再び舞台に戻ってくると、何事もなかったかのように態勢を整えた。
「As I was saying......」。そう小さくつぶやいて、演奏中断の直前の小節から再開。playing でなく、saying。演奏は言葉、身体の一部なのだなと思った。
その日の夜、書棚の『ヤーノシュ・シュタルケル自伝』の隣に、今日の小冊子を大切に納めてからパソコンに向かった。夜に原稿は書かないのがルーティンだが、もはや制止は効かない。頭の中には新しいフレーズや忘れていたシーンが次々に溢れ出してきて、一気呵成に加筆修正した。
シュタルケルは自伝の中で、自分の死後の未来について語っている。それは特定の宗教が他のものより優れているという主張がなくなる日。肌の色が人間の価値を決めることのなくなる日。そんな世界が来ることを祈りながら、彼はこう綴った。
シュタルケルに伝えたい。
世界はいまだ紛争が絶えず、哀しみに覆われています。それでも東方の小さな島国で、ひとりの無力な作家が貴方に心から感謝しています。貴方のお陰で困難な仕事を成し遂げました。そしてもし叶うなら、そちらに居られるバッハさんにも深い敬愛の念をお伝え下さい。
堀川惠子(Keiko Horikawa)
1969年広島県生まれ。『教誨師』(講談社)で城山三郎賞、『原爆供養塔』(文藝春秋社)で大宅壮一ノンフィクション賞、『狼の義 新 犬養木堂伝』(KADOKAWA)で司馬遼太郎賞、『暁の宇品』で大佛次郎賞など。最新刊は『透析を止めた日』(講談社)。開高健ノンフィクション賞審査員、アジア・太平洋賞選考委員などをつとめる。
『ヤーノシュ・シュタルケル自伝』
ヤーノシュ・シュタルケル/Janos Starker [著]
石戸谷 滋[訳]堤 剛[監修]
愛育社[刊]
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vol.101
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