cocoparisienne-Pixabay
この夏の日本はパリ五輪のメダルラッシュに沸いたが、まもなく浜松で音楽関連の国際イベントが開催されるのをご存知だろうか? 浜松国際ピアノコンクールである。今年の応募者数は638名に上り、中には実績のあるピアニストもいるというから、コンクールとして一定の権威を持つ証左なのだろう。
浜松国際ピアノコンクールには、大きな特徴がある。出場者が選べるピアノのメーカーが3つに限られ、しかもそのうちの2つがヤマハとカワイ、つまり日本のメーカーという点である。
両社は世界的な楽器メーカーであるが、同時に浜松国際ピアノコンクールのスポンサーであることを考えれば、このラインナップはある意味で当然と言えよう。
ところでヤマハとカワイは著名なグローバル企業であるにもかかわらず、本格的な研究書は長い間、存在しなかった。
しかし3年前、ついに労作が出版された。ここでは『ピアノの日本史』(田中智晃著)に沿って、両社がいかにライバルとして競いながら成長を遂げ、国際コンクールで使用されるほど秀逸なピアノを製造するまでになったのか、紐解いていきたい。
1888年、浜松に小さなオルガンメーカーが誕生した。山葉風琴製造所である。創業者の山葉寅楠は病院の修理技師であったが、オルガン(風琴)修理を契機にオルガン製作に取り組み、山葉風琴製造所を開設した。その後、寅楠は日本楽器製造株式会社を設立、これが現在のヤマハである。
一方、カワイの起源は1927年に河合小市が創業した河合楽器研究所である。小市は11歳で山葉寅楠に弟子入りした技術者であったが、ヤマハの労働争議を契機に独立した。ヤマハからすれば、手塩にかけて育てた人材が、最大のライバル企業となる会社を興したというわけだ。
後発企業であったカワイが当初採用した戦略は、低価格路線である。特に格安のオルガンでヤマハへの対抗を試みた。とはいえ戦前の日本の鍵盤楽器市場は学校を中心とした狭小なもので、ヤマハとカワイが大量生産を開始し、本格的な競合を繰り広げるのは、戦後になってからである。
戦後の日本は急速な経済成長を遂げたが、そこには生活の西洋化も伴った。食や被服の西洋化が進展し、ピアノも日本人の日常の中に浸透していった。とりわけ少女が習いたい、そして親が娘に習わせたい楽器として憧れの対象となった。
しかしピアノが庶民にアクセス可能な物品となるためには、製品価格の高さとレッスン料の高さという2つの「壁」を乗り越える必要があった。
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