アステイオン

座談会

AIと人間を隔てるのは「身体性」...コンサートホールで体を震わせることこそ「人間的」だと言える理由

2024年10月09日(水)10時55分
片山杜秀 + 三浦雅士 + 田所昌幸(構成:置塩 文)

サントリーホール 小ホールに飾られた木製のブルーローズ

2004年にバイオ技術によってサントリーが開発した「青いバラ」。小ホールは、多くのアーティストによる新たな挑戦の舞台としての活用を願って「ブルーローズ」と名付けられ、入口に木製のブルーローズが飾られている。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール

片山 今「ロシアや中国は近代を知らない」みたいな話をしながら、チェーホフの『桜の園』の老僕フィールスの台詞を思い出していました。

フィールスが「やっぱりあのときに世界が崩壊したんだ。あの前がよかったんだ」と言って、「それはいつの話だ」と聞くと「農奴解放の日だ」と言うんです。「あのまま農奴として生きていさえすれば」と。彼の身体はまさに農奴的身体なわけです(3)。

身体は一人ひとり違う。声も違うし、テンポも違う。そういうものを生き生きとさせることに人生最大の目標があると考えれば、電脳空間のある類型の中で非常に情報量が少ないような音の悪い音楽を聴いて、「これが音楽だ」と思うのではなくて、たとえばサントリーホールに来て体を震わせる。好きな演奏家がいて好きな曲があって、一人ひとり好きなものが違うのは当たり前だというようなことから、個人性というものを常に認識することはできると思います。

三浦さんがおっしゃるように、舞踊が一番の根本。そこには体の動きがある。そこからスポーツが出てきたり、演劇が出てきたりする。また、詩の朗誦でも、歌うことでも、体が動いていて個人性が出てくる。そういうものを尊重することが「人間性の擁護」=「身体性の擁護」なのだと言いたい。

でも、身体性というものは同時に、集団性として、あるいは動物的に一緒になって動くのがいいというように働く場合もある。それはつまり、「私」が消滅する身体性です。事実、それでいいと思える人間はいるだろうし、日本人にもいるかもしれない。

それを文明の問題として考えたときに、受動的な身体であること、単にワン・オブ・ゼムになることの快感のようなものを感じたりすることに甘んじて、ある縄張りさえ維持されていれば拷問されるよりはいいという人間がいる世界がある。

まさにジョージ・オーウェルの『動物農場』に描かれる類型的な動物的なもの、家畜的身体で満足できる人間がいる世界がある。その現実の前では、「身体性を擁護する」と言ってもわからない人がいます。そういう人は勝手にやってくれという話になると、時代が戻ってしまって動物と人間のすみ分けが希薄になるようにも思います。

田所 「受動的な身体でいいや」という人も一定数いる現実があるわけですね。

片山 どういうふうに自分の個としての身体を保持していくのかということを問えば、多分愛とか性の問題も出てくる。そうなると、類型的な表現では満足しないし、ゲームでやっていても多分面白くもない。どうしても相手がいてほしい。

語らいがあって、演技があって、社交があって、喜んだり悲しんだりする。そういう一回性の自由が最大限担保される社会とは何かと考えれば、どういう社会がいいのかというのは世界人類に自ずと明らかだとは思うんです。

資本主義がいいとか共産主義がいいとかではなく、そういう一人ひとりの肉体に即した幸せに言及するしかないくらい、世の中はせっぱ詰まっているのかもしれないと思いますね。

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