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先日、ある大学の授業に招かれ、雑誌編集の仕事について話す機会があった。
以前、やはり大学生と話していて「『ジャンプ』も買ったことありません」と言われ、「いよいよそんな時代か、自分たちのころは『SLUM DUNK』とかが連載されていて......」と心のなかで呟き、自分の年齢へと思いを馳せた。
そんな経験もあったから、授業はかなりのアウェーだろうと不安だった。しかも、私が編集している月刊誌『Voice』は、ジャンルで言えば「論壇誌」だ。
しかし、である。当日、学生の皆さんは私の拙い話に、じつに真剣に耳を傾けてくれた。とくに印象的だったのが、一つひとつの記事を「意外とすぐに読める」という声。『Voice』の論考は6,000字前後が多いが、その分量を読むのが苦ではないという反応には勇気をもらえた。
私は若者と日ごろから接しているわけではないから、いまの学生の実際の傾向はわからない。それでも、彼ら彼女らの真剣な眼差しを思い出すと、雑誌というメディアにはまださまざまな可能性が広がっていると再認識させられた。
私の手元には『アステイオン』の創刊100号がある。同号の特集は、【「言論のアリーナ」としての試み】。読んで芽生えた気付きを書き連ねればキリがないが、とくに考えを深めたのが、やはりと言うべきか、知的ジャーナリズムの未来についてである。
苅部直氏は同特集に寄せた論考で、55年体制の成立以降、政党間競争は保守・革新の両陣営に分かれ、「それに呼応するようにして、新聞・雑誌に見える論説や、関連書籍の内容が、この両極のどちらかに寄った主張を展開するものになり、場合によっては版元と表題だけを見れば、内容が想像できてしまう」傾向が生まれ、現在にまで至ると指摘する。
雑誌名と執筆者、タイトルを並べれば、多くの記事は結論が読める。それでは、読者は「読まなければいけない」とは思わない――。2018年の夏、ある政治学者に言われた言葉を、いまでもよく覚えている。
当時の私は、現編集部に異動した直後だった。全国に足を運び、一人でも多くの識者などと会って話すことで、『Voice』の進むべき道を模索しようとしていた。いま思えば、論壇の世界に身を置く端くれとして、業界の硬直化を感じていたのかもしれない。
それから6年間、『Voice』でめざしてきたのは、抽象的に言えば「開く/拓く」ことだった。あるテーマに対して、その道の専門家のみならず、分野や主義主張の枠にとらわれず、さまざまな知見や視点から議論を展開する。そうして予定調和を打破することで、読者に多様な気付きを提供する。
私にとって、そのお手本となるメディアの一つが、ほかならぬ『アステイオン』であった。
ただし、ポピュリズムが言論界にも浸食する昨今、自分の感情を裏付けしてくれる記事を読みたいと考える読者も少なくない。もちろん、読書にどんな体験を求めるかは自由だ。
しかし、知的ジャーナリズムの側がその風潮に寄りかかれば、どうなるだろうか。
それは、マーケティングとしては正解なのかもしれない。それでも私の心の奥には、「学問も出版業界も市場を見るだけでは、知的ジャーナリズムは衰退してしまう」という河合香織氏の言葉が重く響く。
vol.101
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