主人公ジェイ・ギャツビーが夜な夜な開催する豪華なパーティーに集まる人々は、作中で「遊園地の規則のごときもの」に従っていたと説明される。
もうひとりの主人公であり語り手であるニック・キャラウェイは、ギャツビーの屋敷をはじめ、各登場人物の家に次から次へ誘われていく。
仔細に見ていくと、どの家にも遊園地のアトラクションを思わせる過剰な描写が施されている。さらに、作中に移動手段として登場する自動車も、ローラーコースターのようなスピードとスリルがことさらに強調されている。
そのように遊園地と重ね合わされた都市を舞台に、物語は交通事故と殺人による二重の死へと突き進んでいく。「交通事故」と「死」は、遊園地の多くのアトラクションの基本的なテーマだった。
事故や死のリスクをぎりぎり回避してみせることで、快楽が生じる。『グレート・ギャツビー』は、遊園地の時代が生み出した快楽と危険の表裏の関係を巧みに描き出していたのである。
本書では、他にもさまざまな文学作品を扱いながら、遊園地の原理を持ち込んだ都市空間が、文化と身体と環境の関係を変容させる過程を捉えようと試みている。
1890年代のシカゴ万国博覧会の開催やコニーアイランドの誕生以降、遊園地のモードを生きる人々は、機械装置に身体を運ばれながら、精神や理性よりも神経への刺激に突き動かされて行動するようになった。
もちろん、そうした変化には良い側面もある。大衆文化の隆盛は、19世紀アメリカ社会の堅苦しい規律からの解放を人々にもたらした。
過密かつ動的な都市空間は、時にジェンダーや人種や階級の強固な境界線を取り払う場にもなった。遊園地の新しいリズムが、生のあり方をいくらか自由にしたのである。
けれども、再び現在に立ち返ったとき、ディズニーランドとどこか似通った、徹底した管理ゆえの快適さを特徴とする21世紀の都市の姿に、同種の自由を見出すことはかなり難しい。
カフェやレストランから摩天楼に至るまで、テーマ化が貫かれたメトロポリスは、画一化された窮屈な人工空間に感じられる。
冒頭に挙げた、高層ビルを舞台や主題にした「アトラクション」で、筆者は出口のない偽物のマンハッタンに迷い込んでしまったような奇妙な錯覚に陥った。
こうしたアトラクションが、いずれも身体感覚に働きかけることで、現実とは異なる「幻想」に没入させる効果をもっている点に今いちど注目しておこう。
vol.101
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