今のわれわれの価値観や感性の土俵に合わせた話にしてしまう前に、とりあえずわれわれの固定観念をカッコに入れ、この1931年という時点での「復元」や「オーセンティシティ」のあり方自体を見つめ直してみることが必要なのではないか。
当時の新聞記事をみると、この「復元」の完成に合わせて市電の花電車が運行されるなど、そのお祭り騒ぎのような様子がよくわかるが、それ以上におもしろいのは、人々の関心がもっぱら、鉄筋コンクリートで「復元」され、エレベーターまでつけられた天守閣のモダンなたたずまいに向けられていたということである。
たとえば、同年(1931年)11月5日の大阪毎日新聞の特集記事には「そびえる浪華(なにわ)の巨人!大阪城/天守閣に鏤(ちりば)めた近代科学の粋」という見出しが躍り、中を読んでみると、「構造はいはゆる鉄筋コンクリート建てで、往時の檜材なんか全く蹴飛ばされてしまってセメント一万二千樽、鉄骨千二百トン、鉄筋三百トンでコネあげたモダン・ビルヂングである。...ビルヂングであるからにはエレヴェータの二台や、水洗式の文化便所があっても何等の不思議を感じない。...エレヴェータ、鉄筋コンクリート建に宿命的につき纏う梁と柱の近代的交錯、ペンキの香、鉄とセメントのカクテル、少し開いたドアの蔭から配電盤がニタリと笑ってゐるなんざ--なんとモダンなことよ!」などと書かれている。
唸らされるのは、「淀君をエレヴェータに乗せてやったら、いかに彼女が喜ぶであらうか」という一文だ。これは、いまわれわれが考える「復元」の方向性と正反対である。
見るわれわれがタイムマシンさながらに当時の環境の中に舞い戻ってその時代を体験するというのではなく、当時の人々を現代の方に連れてきてしまうという発想なのである。
今の固定観念に縛られていると奇抜な発想にみえてしまうかもしれないのだが、言われてみればなるほどもっともと思える考え方である。
この復元に関わった専門家はどう考えていたのか。復元プロジェクトで中心的役割を果たした古川重春という人の書いた『錦城復興記』(ナニワ書院、1931年)という本がある。
この復元のために全国各地の天守建築の考証研究を行い、後に『日本城郭考』という大著まで出した城郭建築の専門家である。さすがに、唐破風の表現、鬼板の形態等々、いろいろな項目を挙げた詳細な説明がなされており、なかでもの鯱鉾(しゃちほこ)形態には強いこだわりがみてとれる。
古川はこのプロジェクトの途中で退任してしまったため、完成した鯱鉾の最終形態に彼の考証の成果が十分に反映されなかった部分があったようで、そういう点には容赦ない批判を浴びせている。
そんな時代考証の塊のような専門家だから、鉄筋コンクリート造やエレベーターなどという話には卒倒してしまいそうなものだが、そうではない。
「本来木造建築を踏襲するは復興の真意であるが現代科学の肯定は此伝統的構造を破却せずにはゐない」と述べ、次のように断言する。
「大正末年に及んで現代化学は鉄筋混凝土(コンクリート)の如き理想的建築材料を生んだ。......此時に当りて本天守の如き永久性を持つ記念建築が時代の寵児たる此科学的最強にして且つ最も経済的なる鉄骨鉄筋混凝土を主材とせずして如何なる材料を他に求むべきや。...今後我国における古典建築の『レストレーション』は恐らく此材料に依って木造の『イミテーション』が行はれるものと信ずるのである。」
ここからは、「鉄筋コンクリート造、エレベーターつき」が、「復元」の理念に反するどころか、むしろ新たな時代の「復元」のあるべき姿としてイメージされていたことが窺われる。
それはちょうど、バッハの鍵盤曲の演奏について、往年の大ピアニストたちが、ピアノという、バッハの時代には存在しなかった、より進歩した楽器で弾くことで、さまざまな表現を引き出し、「ピアノで弾くバッハ」の豊かな文化を形作ってきた歴史を思い起こさせる。
vol.101
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