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私たちは、他人の目を気にしてしまう生き物である。他人からの評価を気にして、まわりの人たちから嫌われないように自身の言動を周囲に合わせようとするのは、ヒトという種に進化的に組み込まれた自然な心性に裏打ちされたものだろう。
いまからさかのぼること四半世紀も前に、嫌われたくない日本人の心性を鋭く分析した一冊の本がある。山岸俊男の『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)である。
山岸は日本人が互いに信頼したり協力したりしあう実状を、信頼ではなく「安心」という語を用いて表現する。
ここでの安心とは、「内輪づきあい」と呼ばれるような既存の人間関係の内部で相互に監視・規制(ときには制裁・排除)しあうことにより、そうした関係から逸脱することが損になる状況をつくりだしたうえで、まわりは自分を裏切ることはないだろうと期待することを意味する。
こうした状況が常につきまとう社会に身を置く限りは、たとえ裏切りそうだと思える人物であったとしても「安心」してつきあうことができるというわけである。
このような内輪づきあいの人間関係から生まれる安心は、内輪の外にいる他者一般に対する「信頼」の欠如と表裏一体である。
山岸の研究知見において特筆すべきは、日本人に特有とされる心のあり方(他者一般に対する信頼の欠如)と日本社会のあり方の動的な関係を、ゲーム理論で言うところの「均衡状態」として捉えている点である。
つまり、人間関係の固定性と閉鎖性が、個々の日本人の一般的信頼の欠如を生み出すことで、ますます固定的・閉鎖的な社会関係が重要視されるようになる。その結果として、内輪の外にいる他者一般に対する信頼の欠如が促されるという循環的なメカニズムが働く。
例えば、ある人が「人を見たら泥棒と思え」という諺のとおりに、とりあえず他人を信頼しないという判断に至るのは、その人が固定的・閉鎖的な人間関係の中に生きるがゆえであると考えられる。
そして、まさにそうした他者一般への不信によって人間関係を閉ざしてしまうと、初対面の他者と新たな関係を積極的に構築する筋合いもなくなり、既存の人間関係の内部で、まわりから嫌われないようにふるまうことに固執するようになる。
『安心社会から信頼社会へ』が上梓されたのはもうずいぶん前のことだが、この本の中に満ちている深い考察がもつ説得力はいまだ健在である。
vol.100
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