上野 そのとおりだと思います。
春になると天皇やその地域の位の高い人が山に登って景色を見渡し、「こういう景色が見えた」と歌います。
「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は......(5)」。
国原には煙が立っている。これは、炊煙です。海に鳥がたくさんいるのは、魚がいるということ。さぞかし豊漁なんでしょう。それが「見れば見ゆ」、つまり「見たら見えた」という型の国見歌(くにみうた)です。
実際には、貧しくてご飯なんか食べられないかもしれない。豊漁でないかもしれない。でも、天皇が「そういうものが見えた」と歌うことで、「それが実現する」と思う。
これは言葉に魂があるから、言霊があるからです。『万葉集』に「見れば見ゆ」型の国見歌がこれほど多数存在しているのは、そういう古い呪術が『万葉集』の歌の形式に引き継がれているからなのです。
マクミラン 『万葉集』の翻訳文学という側面については、「型があるから破れる」という先ほどの説明にすごく納得しました。それでは、今お話しになった呪術的な面についても、中国に型があったのでしょうか。それともそれは日本独自の感性ですか。
張 日本にはもともと呪術があり、例えば漢文を学んだ日本の文人たちが外交使節として中国に行き、呪術を見て似ていると感じた、ということはあると思います。
ただ、中国の呪術は既に、天を祀る儀式、地を祀る儀式というふうに宮廷の中で儀礼化していましたから、比較すれば日本の呪術のほうが匂いは強かったと思うんです。
マクミラン そうなると、「『万葉集』は中国の翻訳文学」という冒頭の話は実際はもう少し複雑で、翻訳文学であることに加えて、もともと日本にあった呪術的な世界を、中国の呪術的な型を借りてやまと言葉で表現し直している要素もある、と言えますね。
※第3回:万葉集は英訳のほうが分かりやすいのはなぜか?...古代から現代、日本から世界に羽ばたく「世界文学としての和歌」 に続く
上野誠(Makoto Ueno)
國學院大學文学部日本文学科教授[特別専任]・奈良大学名誉教授。1960年生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。専門は万葉集、万葉文化論。著書に『折口信夫 魂の古代学』(角川ソフィア文庫)、『万葉文化論』(ミネルヴァ書房)、『日本人にとって聖なるものとは何か』(中公新書)、『万葉集から古代を読みとく』(ちくま新書)など多数。
ピーター・J・マクミラン(Peter MacMillan)
翻訳家・版画家・詩人。アイルランド生まれ。日本での著書に『日本の古典を英語で読む』『英語で味わう万葉集』『松尾芭蕉を旅する』など多数。相模女子大学客員教授・東京大学非常勤講師をつとめるほか、朝日新聞で「星の林に」、京都新聞で「古典を楽しむ」を連載中。NHK WORLD「Magical Japanese」、KBS京都「さらピン!キョウト」に出演している。
張競(Kyo Cho)
1953年上海生まれ。華東師範大学卒業、同大学助手を経て1985年に来日。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。著書に『海を越える日本文学』(筑摩書房)、『異文化理解の落とし穴』(岩波書店)、『詩文往還』(日本経済新聞出版)など。
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