アステイオン

座談会

万葉集は世界レベルの文学作品であり、呪術的な世界の記録として極めて優れている

2024年03月13日(水)10時55分
上野誠 + ピーター・J・マクミラン + 張競(構成:置塩文)

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左より張競氏、ピーター・J・マクミラン氏、上野誠氏 すべて河内彩撮影

「歌」は言語の記号的性格を「超える」もの

 私には、『万葉集』は二重構造になっているように感じられます。1つは宮廷儀式のための歌、もう1つは民間の日常が見えてくるような歌。最初に「歌が大事」と主張した人たちはおそらく、儀式に使うことを考えた。そして実際に呪術的な場面で使われていたのではないか。

折口信夫の言う呪言と寿詞、つまり、霊的存在を言葉で統御しようとする行為です。これは非常に権威を持ちますから、それによって歌という形式が定着したと思います。

しかし同時に、民間に広がっている声も拾い上げ、両者を共存させました。それはなぜでしょうか。

上野 ヨーロッパの大都市の教会では、フランス語でのミサは何時から、ドイツ語は何時、英語は何時、韓国語のミサ、中国語のミサというふうに一日中やっていますね。聖書の言語も、ギリシャ語そしてラテン語の時代があり、それが各国語に翻訳されて各国のキリスト教ができてきます。

オペラだって、イタリア語で始まったものが、ドイツ語、フランス語、英語のオペラとできてくる。そうして各国の言語に訳していくのだけれど、それでも漏れてしまう人たちがいます。

その人たちは、「言葉はわからないけれど雰囲気がいい。旋律がきれい」ということでミサに行き、オペラを観る。僕はそれが歌の役割だと思います。歌は、言語の記号的性格を超えていくものだと思います。

『万葉集』と呪術的世界観

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マクミラン 今言われた呪術の話ですが、『万葉集』には「何とか何とか見ゆ」という歌がありますね。これは、ただ美しい幻想的な風景を詠んでいるのではなく、見ているものが現実になっていく過程を詠んでいる。

お月様が実際に舟になっていくとか、他界した相手が上方にいて手が届かないとか、見えているものを現実であるように言葉に表している点がシャーマン的です。

中国の文化の影響を受けながらも、本来、呪術的な精神性、世界観を持っていることがうかがえます。

アイルランドにもそういう言霊世界観や文化があります。詩人の位が高いのは、言葉で現実にさせる力を持っているからです。

古代ギリシャの文学に出てくる「ロゴス」は、言葉も現実もロジックも全部含む概念ですから、呪術的な世界観は同じようにあるわけです。

でも、私の知る限り、それが記録として残されているのは『万葉集』だけです。もしそうであれば、『万葉集』は、世界レベルの文学作品であるだけでなく、呪術的な世界の記録としても極めて優れた価値を持つことになる。

文学の枠組みを超える、人類にとって非常に大事な歌集だと思うのです。それが、私が『万葉集』を翻訳する動機でもあるのです。

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