将来のことはわからない、そこで歴史を振り返ってみようという話であるのに歴史を学んでも現在や将来に直接応用できるわけではないのでは、救いがないように思えるかもしれない。
だが、歴史を学ぶ効用はたしかにある。
高坂が上掲『大国日本の世渡り学』で示したなかから2つ挙げれば、まず、歴史の感覚は現在を見るわれわれの目を相対化する。すなわち歴史をよく知っていれば現在のできごとを、少々変わった視角から見ることができる。そして、歴史はヒントを与える。
歴史の教えはかようにいわば慎み深く、間接的である。現在について考えるために歴史を振り返ろうとするのはよいことだが、そこで「歴史は○○だった。ゆえに現在▲▲すべきだ(/将来■■になる)」と安直に断ずるような論は、往々にして危うい。
歴史がわれわれに与えてくれるのはものの見方や示唆であって、一定不変の解ではない。歴史を学び現在を見る目を相対化したうえで、その豊かになった目をもって現状を的確に分析できるかどうかは、現在に生きる者次第である。
私は高坂の言論活動をリアルタイムでは知らないし、正直に白状しておけば、これまで高坂作品の熱心な読者でもなかった。丁寧に読んだのは、『国際政治』、『古典外交の成熟と崩壊』、『宰相吉田茂』くらいだろうか。
優れた先人の論の一つとして大いに学びはしたが、それ以上でも以下でもない。「高坂正堯」と聞くと語る熱量が一段上がり、ともすれば唯一無二の知的巨人のように位置づける向きがあるのを、やや不思議に思っていた。
しかしこの度、偶々本稿の依頼があり『歴史としての二十世紀』をよく読むと、これが実に面白い。示唆に満ちている。
それは、全編を通じてどこで現れるかわからない。いわば要約をこばむ作品である。その語りを追体験するのは、高坂が嗜んだ囲碁になぞらえれば、さながら名手の流麗な棋譜を並べるようである。
「戦争の世紀」再来というのが今回『歴史としての二十世紀』のキャッチコピーだが、私はむしろ戦争以外の記述により興味をひかれた。
例えば、大衆民主主義では財政赤字に陥るはずなのに日本がそうなっていないのは、大蔵省の役人が「財政は健全じゃなきゃいかん」と頑張っているのと、赤字に対する恐怖感が日本の庶民に強いからだとする。
日本の高い貯蓄率、日米間の摩擦、国際社会への日本の発信、と縦横に論じるなかでの一コマである。財政赤字に関して当時と状況が異なる現在、日本人の「赤字に対する恐怖感」は変化したのか。
vol.100
毎年春・秋発行絶賛発売中
絶賛発売中