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<冷戦終結直後の1990年に行われた、幻の講演録「歴史としての二十世紀」がこのたび文字に起こされた。現在と未来、そして歴史をどう学ぶのか?>
しかも現在、共産主義は崩壊したけれども、では次の新しいアイデアは何かというのは出ていない。大きなアイデアが世界に通用しない、という否定的な面はわかっているが、こういう新しい理念でやっていくという理念が生まれているわけではない。
そういうときに将来がどうのこうのは推測でしかないので、したがって、今までに起こったことがいったいどういう風なものであったのかを整理しておきたい――。
1990年1月19日、高坂正堯はこのように述べて、今回の本の元になった6カ月にわたる講演を始めた。新宿紀伊國屋ホールで毎月おこなわれていた新潮社の文化講演会の1990年前期連続講演である。(録音音声は、LisBoで聴くことができる。上掲部分は試聴も可能。音声はこちら)
将来のことは、たしかにわからない。高坂は別の機会に、以下のように述べている。
いや、10年後だけでなく、1年後も1か月後も確たることはわからない。昨年来のロシア・ウクライナ間の戦争がいついかなる結末を迎えるのか、定かではない。したがってまた、今後の国際秩序や大国ロシアのあり方がどうなっていくのかも不明である。
『歴史としての二十世紀』は今回、宣伝文句などから察するに、ロシア・ウクライナ間の戦争を機に刊行が計画されたはずである。しかしそれが世に出るころには、イスラエル・パレスチナという別の巨大な国際問題も前景化していた。
まさに、「そこから何が出てくるかはわからない。所詮、将来というのはわからないところがある」との言が似つかわしい状況である。
では、歴史を学べばそれで将来を見通せるようになるか。あるいは、現在について確たることを語れるようになるか。残念ながら、必ずしもそうでもない。
高坂はこう言っている。
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