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2019年の前半は最悪だった。近い将来「コロナって何年だっけ?」「Covid-19だから2019年じゃない?」と記憶されるはずのこの年は、実際には我々にとってコロナ以前の最後の年であったが、私個人にとっては、むしろ2020年以降よりもはるかに悪い意味で記憶に残る年だった。
2017年の秋にオックスフォード大学の博士課程に入学し、1年目を終えた私は、2019年の前半はカタールとシンガポールをベースに、それぞれ1-2ヶ月ほど現地調査を行う計画だった。しかし不運にもドーハでの短期滞在中に肺気胸になり、保険会社との帰国交渉がこじれたこともあって現地の病院に1カ月も留め置かれる羽目になったのだ。
そういう大変な時期に私が出会ったのが、短歌だった。日本に一時帰国してまもなく、私は結社(短歌の同好会というか集まりのようなもの)に入り、盛んに作歌を始めた。
何が私を短歌に向かわせたのか。それはやはり、短歌が感情を表現させてくれるということが大きい。
私は個人的に、研究にも背景に強い感情や理想があることが望ましいと思っているが、だからといって論文に感情を出すことはできない。むしろ思い込みやバイアスを極限まで排除したところに、学問的な厳密さが生まれるものである。
しかし短歌は違う。物に、現象に、あるいは音に仮託して、やや間接的な形ではあれ、人間の感情を自由に表現することが許される。
題材はありふれた生きづらさや人との別れ、仕事の失敗であっても、三十一音にすることで、それは書き連ねた散文よりも時に鋭く光を放つことがある。2019年の私には、短歌で心の澱を昇華させることが必要だったのだ。
実は、短歌を作る研究者は少なくない。
元々、永田和宏や坂井修一、そして筆者と同じ政治学分野では島田幸典が研究者歌人であることは知っていたが、松村由利子『短歌を詠む科学者たち』(春秋社、2016年) を読んで、かの湯川秀樹や湯浅年子、柳澤桂子といった科学者たちも、実は短歌を嗜んでいたということを知った。
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