「二十六聖人記念碑」(西坂公園)leodaphne-iStock
JR長崎駅から歩いて5分ほどで「日本二十六聖人殉教記念碑」に着いた。記念碑そのものの写真しか見たことがなかったので、昨年9月に訪れたとき、キリシタンの刑場であったこの地が街の中にあることを意外に思った。
恐らく意識のなかでも世俗的な雰囲気から切り離し、神聖な部分だけを取り出して見ていたのだろう。
1597年、豊臣秀吉の命により26人のキリシタンがここで処刑された。日本で初めて起きた大殉教であり、記念碑はローマ・カトリック教会による26人の列聖100年を記念して1961年に建立された。
足を宙に浮かべて横一列に並ぶブロンズ像に向き合うと、命をかけて信仰を守る崇高な精神を感じないわけにはいかない。
しかし、と心は同時に思うのだ。信仰は命より大事なのだろうか、信念を貫くことの神聖化は危うさも孕んでいるのではないかと。
それは、2001年に偶然いたニューヨークで目撃した「9・11」から、近年のトランプ氏と支持者らをめぐる事象、昨年の安倍晋三元首相銃撃事件で浮き彫りになった旧統一教会の問題まで、宗教やイデオロギーの対立がもたらす社会の深い溝や暴力が心に浮かんだからだろう。
『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン』(小岸昭著、2002年、人文書院)と出会ったのは昨年8月だった。海をめぐる日本人の精神史を探る連載(産経新聞『わたつみの国語り』)で、キリスト教伝来を取り上げるため資料を探していた図書館で見つけた。
小岸氏はドイツ文学を専攻しユダヤ思想研究を軸にディアスポラ・ユダヤ人の足跡を追求している、と著者略歴にあった。出版の前年に京都大学総合人間学部を定年退職していた。
この本で初めて、中世から近世のスペイン・ポルトガルで、ユダヤ教の信仰を隠して生きた「隠れユダヤ教徒」がいたことを知った。キリスト教絶対主義の社会で彼らは、豚を意味する「マラーノ」と蔑称されたという。
「隠れキリシタン」が世界に類例のない現象だと思い続けてきた認識が違っていたことに驚き、しかもその類例が、日本にキリスト教を伝えた宣教師たちの故国であるスペイン・ポルトガルにあったことで二重に驚いた。
日本で弾圧されたキリスト教は、宣教師たちのふるさとにおいては弾圧する側であったのだ。
vol.101
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