このように、ムスリムの生きる世界は、コーランを書き入れた銘文を通じて、神の言葉が遍在する世界である。しかもその言葉が、それにふさわしい場所やものに付されているので、ムスリムは、神の言葉や存在を実感できるのだろう。
さらにムスリムは、一日に5回、礼拝する。神の言葉であるコーランを読誦し、自ら聞き、仲介者なしに神と向き合う。彼らは神の言葉が、視覚的にも聴覚的にも遍在する世界に生きている。
近代化するにつれて社会が、「声の文化」から「文字の文化」に移行するというウォルター・オングらの見方がある。それとは異なり、コーランが重要な役割を果たすイスラーム圏は、「声の文化」の輝きを保持しつつ、書かれたものを重視する「文字の文化」である。
神の言葉が、聴覚的にも視覚的にも遍在し、ミフラーブやモスクランプが象徴的に神を示す世界にあっては、神の具象的な表現を必要としなかった。それゆえに、一切の像に頼ることなく、信仰を守り続けることができたのではないだろうか。
鎌田由美子(Yumiko Kamada)
慶應義塾大学経済学部准教授。専門はイスラーム美術史。2002年慶應義塾大学文学部美学美術史学卒業。東京大学大学院、メトロポリタン美術館イスラーム美術部門ホイットニー研究員を経て、2011年ニューヨーク大学美術研究所より博士号取得。『絨毯が結ぶ世界──京都祇園祭インド絨毯への道』(名古屋大学出版会、2016)により、日本学士院学術奨励賞、大平正芳記念賞ほかを受賞。「近世日本における絨毯の輸入、受容、生産についての実証的研究」にて、サントリー文化財団2012年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」に採択。
Islamic Inscriptions(イスラームの銘文)
Sheila Blair(シーラ・ブレア)[著]
Edinburgh University Press/ New York University Press,1998[刊]
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