東京ジャーミイの内観 nyiragongo-iStock
イスラーム圏に旅した人のなかには、街のモスクから聞こえるアザーン(礼拝への呼びかけ)の美しさに強い印象をもった人もいるだろう。あるいは、渋谷にあるモスク、東京ジャーミイを見学して、コーランの響きの美しさを実感した人もいるだろう。
そうしたモスクのなかには、神を具象的に表した絵画や彫刻が存在しない。あるのは、カーバのあるメッカの方向を示す壁龕(ミフラーブ)と、壁面を飾る書や装飾文様だけである。
他方、キリスト教の教会では、キリストやマリアの姿が、絵画や彫刻、ステンドグラスで具象的に表されている。
キリスト教もイスラーム教も、偶像崇拝を禁止している。それにもかかわらず、キリスト教世界では、神の子であるキリストの具象的表現が広く見られ、イスラーム圏では1400年に渡り、神を具象的に表現することが一切なされないまま今に至るのはなぜだろうか。
そもそも、拝む対象が具象的であるほうが、拝みやすい。お寺で祈るとき、我々は仏様の絵画や仏像に手を合わせる。仏教は、仏の像をつくることを禁止していない。
キリスト教圏において、キリストの絵画や彫刻が作られたのは、それらを媒介として神を思い描きやすいからだろう。この是非をめぐって、8-9世紀にはビザンティン帝国で論争が起きた(イコノクラスム)。しかしながら、キリストの像は作られ続けてきたのである。
こうしたことを考えると、イスラーム教が生まれた7世紀から現在まで、神を具象的に表すことを一切行なわず、偶像崇拝禁止の教えを守り通すことができていることが、不思議に思われる。
その理由としては第一に、コーランに神が不可知の存在と書かれていることが挙げられる。不可知の存在なのだから、具象的に表現しようがないのである。
もう一つの理由を、コーランの特徴と、イスラーム圏の建築や美術工芸品の装飾として重要な役割をはたす書・銘文に着目して考えたい。
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