朝鮮は、中国の圧倒的な軍事力や経済力、唯一無二の中国皇帝の権力を背景とした「宗主国」との絶対的な上下関係である「宗属関係」を有したが、朝貢などの定められた儀礼を守っている限り、内政・外交は「自主」とされた。すなわち、中国は朝鮮の内政・外交に干渉しなかった。
ただ、他方で朝鮮にとって、「中華」は必ずしも1つではなかった。漢族の明朝中華が正統であり、清朝中華は一時的な「仮の中華」であるという認識もあった。そのため、明朝滅亡後には、朝鮮の王宮内に明朝皇帝を祀る祭壇(大報壇)を作って、国王自ら参拝していたほどだった。
背景には、明朝中華の制度や文化を正しく継承しているのは、清朝ではなく朝鮮だという小中華(朝鮮中華)思想の自負があった。
とはいえ、現実世界の政治・外交の相手は清朝だったため、朝鮮は公的な中華を体現する清朝中華と、正統な中華の継承を自任する朝鮮中華との、いわば2つの中華のなかにあったといえる。
1882年に結ばれた「中国朝鮮商民水陸貿易章程」は、そうした2つの中華のなかで結ばれた。そもそもこの章程は、中朝間で民間貿易を認めて欲しいという朝鮮の要求によるものだった。
しかし1882年は、朝鮮がアメリカなど欧米列強とも条約を結んで通商を始める年でもあった。そのため朝鮮は、自国での中国の特別な貿易特権が、日本や列強に均霑(きんてん)されることを懸念した。
朝鮮の懸念を受け、清朝はこの章程の前文に、「朝鮮はこれまで長い間中国の藩封であった」、「この章程は中国が属国を優待する意図で結ぶ」と明記し、章程が条約と異なることを伝えようとした。
先の「仁川口華商地界章程」での、各国とは異なる華商特権の明記も、そうした延長上にある。清朝にとっては、朝鮮との宗属関係はあまりに自明であり、中国が世界の中心であることは疑う余地もないことだったので、むしろ、西洋列強との関係を不安がる朝鮮をなだめるための前文だった。
しかし、清朝の予想とは異なり、列強は国際法を基準に中朝の宗属関係を理解しようとしたため、のちに清朝はむしろこの前文を強調するようになる。
「中国朝鮮商民水陸貿易章程」は、中朝間の上下関係を前提にして結ばれたもので、この章程の運用においても、中国の華商と「属国」朝鮮の商民は同じではなかった。
例えば、朝鮮人に北京交易を許し、中国人に漢城(ソウル)交易を許し、互いに等しく内地での商売を認める条項は、一見対等に見える。
しかし、中国に行く朝鮮商人と朝鮮に行く中国商人では、後者のほうが圧倒的に多かった当時の状況に照らせば、運用上は決して対等ではなく、華商のための条項の意味合いが強かった。
vol.101
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