アステイオン

韓国

中華街は華やかな観光名所か、中国人の集住地区か――韓国の中の「中華」を探る

2023年07月19日(水)10時55分
森 万佑子(東京女子大学准教授)

chinatown-inchon-20230713.jpg

仁川中華街の牌楼 筆者撮影

仁川は、1882年に中国との間で結ばれた「中国朝鮮商民水陸貿易章程」に基づいて、1884年に結ばれた「仁川口華商地界章程」によって中国商人が多く集住するようになった。以後、仁川は中国人が多く暮らす街となって140年以上の歴史をもつ。

1882年の「中国朝鮮商民水陸貿易章程」から、2000年代以降の仁川中華街への変化まで、およそ120年間。仁川中華街の中国人は、出身国の情勢変化(清朝→中華民国臨時政府→汪精衛政府→中華民国/中華人民共和国)に伴い、仁川での立場も大きく変化した。

清朝時代は、中国商人・中国人は華商・華人という名にも表れるように、中華(宗主国)から「属国」に来る優位な立場にあったが、国共内戦により不安定な立場に追いやられ、大韓民国(韓国)成立後は韓国人としてのナショナリズム形成と反共政策を掲げる政権下で弾圧・取締りの対象となった。

本稿は、激動の歴史を歩んできた仁川中華街を手掛かりに、中華と朝鮮半島のかかわりを改めて見つめ直してみたい。

朝鮮王朝と2つの中華──清朝中華と朝鮮中華

仁川に清朝商人が多く集まるようになったのは、前述した「仁川口華商地界章程」(1884年)を端緒とする。前年には「日朝修好条規」(1876年締結)に基づいた「仁川港日本租界条約」が結ばれたため、この章程には、清朝が仁川での日本人商人をけん制する意図もあった。

「仁川口華商地界章程」締結前の1883年末には、清朝は領事業務を担う委員・李乃栄を仁川に派遣して常駐させ、清朝居留地の整備に動いていた。

「仁川口華商地界章程」前文は、「中国は朝鮮を一家のようにみなし、通商も各国とは同じではない」から始まり、朝鮮で華商が優待特権を受けること、それを各国は援用できないことを明記している。仁川で中国居留民が増加した際には、外国居留地内にも居住できるという規定まである。

当時、朝鮮は中国に朝貢し朝鮮国王は中国皇帝に冊封される「属国」であった。

もちろん、この「属国」は近代国際法でいう属国とは異なる。

PAGE TOP