石橋湛山 撮影:田村茂(文芸春秋新社、1953年) 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
今年は石橋湛山(1884-1973)の没後50年にあたる。興味深い試みのひとつとして、企業人のリチャード・ダイク氏が『石橋湛山全集』の英訳に挑戦中で、厳選して一冊にまとめ今年中にアメリカで出版する予定だという。インタビューでダイク氏が語っている。
湛山は明治44(1911)年1月、26歳で東洋経済新報社に入社した。敗戦を機に政界へ転身したため東洋経済新報社の社長を辞任したのが昭和21(1946)年5月で、35年間にわたり東洋経済新報社を率い、自由主義、民主主義の論陣を張りつづけた。
湛山が「小日本主義」を唱え、帝国主義的な政策を一貫して批判したことはよく知られている。しかし敗戦後、不可解なことに、日本を統治したGHQは湛山を公職追放処分とした。昭和26(1951)年6月の出来事で、湛山は吉田茂内閣で大蔵大臣を務めていた。
石橋蔵相の追放について、GHQ管理下の日本のメディアは批判を控えた。だがアメリカでは当時、マッカーサーは独裁者なのかとの批判があったとダイク氏は言い、「アメリカの進駐軍とその後の冷戦時代のダレス米国務長官は間違いなく石橋を嫌っていました。恐れていたと言ってもいいと思います」と語っている。
湛山追放の真の理由はいまも藪の中だ。ただ理不尽な追放劇は、多忙を極めていた湛山に貴重な時間を与えた。不遇をかこつなか書き継いだ『東洋経済新報』の連載記事をまとめ、追放処分を解かれた直後の昭和26年10月、湛山は自伝『湛山回想』を上梓した。
「本書は彼の行動をたどる自伝であるとともに、湛山の価値観や思考方法を読み取ることができる思想の書でもある」と『湛山回想』(岩波文庫)の解説で経済学者の長幸男は評している。
湛山は、明治維新を日本の民主主義革命と捉えていた。
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