「五事の御誓文」とは、明治天皇が宣布した「五箇条の御誓文」を指す。「広く会議を興し万機公論に決すべし」など、明治新政の5つの基本政策を謳ったものだ。明治天皇崩御の直後、駆け出し記者にすぎなかった湛山が「明治時代の意義」(『東洋時論』大正元年九月号)を説いている。
湛山が政界の実情を知らなかったというわけではない。明治後期を「政党と藩閥の苟合(こうごう)の歴史」と批判してもいる。湛山にとって言論活動はむしろ、「近代国家日本」という壮大なプロジェクトを本来の「デモクラチックの改革」へ導く実践だった。実際、大正デモクラシーの一角を担っていく。
第一次世界大戦後、平和のための新たな国際秩序を模索する気運が生まれ、中国問題や海軍の軍縮問題などを議題とするワシントン会議が開催される。
湛山はこの機を捉え、東洋経済新報社の社説で「一切を棄つるの覚悟」「大日本主義の幻想」を著した。日本は満州はもちろん、朝鮮・台湾・樺太も捨てる覚悟を持て――そう檄を飛ばしたのである。さらに、太平洋問題研究会を立ち上げ、英語の冊子を作製してアメリカで配布する徹底ぶりだった。
ワシントン会議は結果的に日米間の緊張を和らげる役割を果たしたが、湛山は、東アジアの新たな秩序構築に率先して関わるべく、帝国主義を批判して小日本主義を掲げた。国際政治の潮目を見抜く眼力を備えていたわけだ。
しかし満州事変以降、日本は日中戦争の泥沼にはまり、まさに湛山が危惧した方向へと突き進む。敗戦直後の日記に湛山は書きつけた。
「考えてみるに、予は或意味において、日本の真の発展のために、米英等と共に、日本内部の悪逆と戦っていたのであった。今回の敗戦が、何ら予に悲しみをもたらさざる所以である」
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