アステイオン

経済学

FRB元議長ポール・ボルカーと「中央銀行の時代」

2023年01月11日(水)08時07分
白川方明(青山学院大学特別招聘教授、前日本銀行総裁)

ボルカーは私が日本銀行に入行した1972年当時、米国の財務次官として既に国際金融界で活躍していた。1979年にはFRB議長に就任しており、若い頃の私がボルカーと仕事上接触することはもちろんなかった。私が初めて彼の面識を得たのは、日本銀行のニューヨーク駐在として勤務していた1996年のことである。

ボルカーはFRB議長を退任していたが、既にレジェンドとも言うべき人物であった。私は若輩のセントラルバンカーとしてやや緊張しながらマンハッタンのビルの一室にある彼のオフィスで色々な話を伺った。彼の質素な生き方を反映してか、オフィスもこぢんまりとした小さなスペースだった。

当時、日本で日本銀行法改正論議が唐突に始まったこともあり、私が最も聞きたかったのは中央銀行の独立性に関する彼の考え方だった。ボルカーが熱心に中央銀行の独立性について語ってくれた姿は忘れられない。

日本銀行総裁に就任した後、ボルカーと会う機会は増えた。特に、グループ・オブ・サーティー(G30)と呼ばれる現役およびOBの中央銀行総裁や経済学者等が集まる会合で会う機会が多くなった。

氏はこの会合の代表を長く務めたが、その地位を後任に譲った後も常連のメンバーであり、会合で発する氏の言葉──聞き取りにくい英語であったが──はいつも重みを持って受け止められていた。201センチという身長だけでなく、文字通りそびえ立つ(towering)という表現がピッタリのセントラルバンカーであった。

前述の「中央銀行の時代」とも呼ぶべき状況であるが、私はそうした時代の風潮に対し、ボルカーがどのように考えているかということにずっと関心を持っていた。と言うのも、この問題は私の総裁時代の末期にピークに達した日本銀行批判と密接に関係するからである。

日本銀行に向けられた批判とは、①日本経済の低成長の原因は物価下落(デフレ)にあり、②そのデフレは貨幣的現象である、③そのため日本銀行は2%の物価目標を設定し、期限を区切って目標を達成しなければならないという主張であった。

具体的な政策論としては、おカネを大量に供給し期待に働きかけることを求められた。この主張は日本でいわゆるリフレ派と呼ばれるグループだけでなく、経済界やマスコミでも次第に支持を集めるに至った。

それがピークに達したのが2012年末から2013年初であった。海外、特に米国のマクロ経済学者も辛辣であった。後にFRB議長となるバーナンキが学者時代に使った表現を借りると、日本銀行は強力な武器を持っているにもかかわらず「不必要な自縄自縛に陥って問題を解決せず放置している」と批判された。

海外でも欧米諸国は2000年代に入り物価上昇率が低下する局面を何回か迎えたが、その度に、「日本の教訓」に学んで積極的な金融緩和政策が必要であると主張され、事実そうした政策が推進された。その背後にある思想も、「中央銀行万能論」に立つ政策観や経済理論であった。

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