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いまからおよそ120年前、アメリカは柔術に熱狂しました。新聞では毎日のように柔術のニュースが報道され、広告ではファッションと柔術が結びつき、図書館では柔術教本が貸出件数の上位を占め、巷には柔術式エクササイズが出回り、明日の話題には異種格闘技試合の予想が上る。柔術の流行は数年と持ちませんでしたが、その熱狂の度合いはまさしく"craze"でした。拙著のタイトルを柔術狂時代とした所以です。
この熱狂の背景には日露戦争があります。不思議で不気味な柔術は、日本を象徴する格好のカリカチュアでした。柔術の流行の盛衰と対日感情の変化はパラレルであり、たとえば1905年4月にニューヨークの大劇場で行われた柔術対レスリングの決戦を巡る一連の報道には、好奇心から警戒心へと変わりゆく世論が投影されています。
メディアはときに大衆消費とナショナリズムとの結合を促しますが、異文化たる柔術の積極的消費を通じて、逆説的にアメリカの大衆が自文化への関心と自国への誇りを抱くようになったという意味では、柔術は全くの「当て馬」でした。
もっとも、拙著の主題は、流行のメカニズムを図式的に説明することではありません。心を砕いたのは、流行の下で蠢く人々の欲望や策謀、坩堝の中で溶け合う異文化と自文化、それらの様態を出来る限り活き活きと描くことです。
ホワイトハウスとその周辺で親日派が柔術を大統領に献上している傍ら、ダウンタウンの一角では柔術で一山当てようと日米の山師がコンビを組む。太鼓腹に悩む男性も、理想のプロポーションを夢見る女性も柔術に飛び付く。
嫌悪と羨望の入り混じったまなざしでその狂態と向き合う柔道家たち。柔術と柔道という、似て非なる2つの日本文化がアメリカで巻き起こした奇妙なせめぎ合い。文化混交の果てにキメラの如く変貌していく柔術。
本物と偽物。高尚と低俗。勝利と敗北。目指したのは、海を越えた文化の普及と受容のダイナミズムを、錯綜する虚実がもたらす混沌と熱狂という、泥臭く生々しい視点をもって論じることでした。
しばしば、武道は日本固有の伝統文化といわれます。しかし、伝統や固有性への固執が国籍や純血のイデオロギーと結びつくとき、文化はその豊饒さを失います。
現代においても、武道の世界発信が盛んに試みられていますが、そうであればこそ、エスノセントリスティックな驕りを捨て、武道を世界に押し出す力よりも、世界が武道を引き寄せてきた力の所在と意味を理解する必要があるでしょう。拙著がその一助になれば嬉しい限りです。
柔術狂時代には続きがあります。なぜなら、柔術の流行は実際のところアメリカ一国に留まらない、トランスナショナルな現象だったからです。それでは、世界が柔術に魅了された理由は何だったのでしょう。身に余る栄誉に与ることへの心からの感謝と無上の喜び、そしていっそうの責任感を胸に、次なる問いに挑みたいと思います。
藪 耕太郎(Kotaro Yabu)
1979年生まれ。 立命館大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。 現在、仙台大学体育学部准教授。 著書にChallenging Olympic Narratives(共編著、Ergon Verlag)など。
『柔術狂時代──20世紀初頭アメリカにおける柔術ブームとその周辺』
藪 耕太郎[著]
朝日新聞出版[刊]
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