その究極系である「ゾーンに入る」ときには、自分の意識を離れ、行為そのものになる感覚がある。為末さんが、人生で3回だけ経験したというその状態は、時間感覚が変容する不思議な体験だったという。ハードルを跳ぶぞという意識ではなく、気づいたらハードルを跳んでいた感覚で、意識が後追いだったというのも興味深い。
ゾーンは、意図してひきおこせるものではないし、実験室で検証できない主観的な体験なので、科学的な説明がむずかしい。下條さんは、そのことを認めながらも、心理学の概念「フロー」を話の糸口とする。
フロー自体、実験的にその機序を分析しにくい主観的な体験だが、アスリートにかぎらず、わたしたちがなにかに夢中になっているときのこころの状態のことだ。
チャレンジングな課題に対して、注意が極度に集中するとき、時間の変容がおこり、没入感や遠隔存在感を感じる。そのとき大きな快がもたらされることも特徴だ。ゾーンは、フローのなかでもとくに集中の強い状態と位置づけられる。
将棋の羽生善治さんが詰め将棋をフルスピードで解いているときのフロー状態の脳を調べると、生存の根幹を担う脳幹部という進化的に古い部位が活性化していたという。
意識と無意識、意識変容状態、モチベーションの神経基盤など、興味深い知見を紹介しながら対談は進む。そのなかでも、わたしが興味をひかれたのは、遊びというキーワードだ。
ゾーンは一握りのトップアスリートが生涯で数回しか経験できない次元の話なのに、なんとなく想像できる気もする。それは為末さんも指摘されているように、ゾーンに入る状態と、子どもが夢中で遊んでいるときのフロー状態とに共通する部分があるからなのだろう。
本番でパフォーマンスが高い選手には、成功や目標達成のためというより、ただ楽しいからやっている、というタイプの選手が多いこと、モチベーションを維持できる選手は、うまくいくこと自体よりも、うまくいかせようとするプロセスに価値を見いだしている人だという指摘も腑に落ちる。
スポーツを究めることは、身体的な技能を磨くだけでなく、遊びごころを究めることなのだと思った。
そこにアートとの共通点があると気がついた。アーティストは、生まれつき表現の才能に恵まれた人のように思われがちだが、実際には、子どものころから飽きもせずに毎日何枚も絵を描いてきたような人が多い。それこそ、うまく描くことよりも、そのプロセスを楽しめるということが才能なのではないか。
ピカソが「子どもはだれでも芸術家だ。問題はおとなになっても芸術家でいられるかどうかだ」と言っているが、子どものように夢中で表現に向き合いつづけることが才能なのだろう。
ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で、スポーツやアートを含むすべての人間の文化は、遊びから生まれたと指摘したが、その世界を究めることは、やはり遊びを究めることなのかもしれない。
vol.101
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