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歴史

氷河期世代が振り返る平成──「喪の作業」としての平成文明論

2022年08月29日(月)07時58分
酒井 信(明治大学国際日本学部准教授)

私もそういう経験を幾度となく味わい、心身の不調に陥ったこともある。これだけの大著を記した人物が、大学に復職できない(しない)のは人的損失を超えて社会問題である。

『平成史』は現代史に関する「引き出し」の多い著者らしい、他の著者に真似のできない「歴史書」である。

冷戦構造の崩壊後に混乱をきたした国際情勢を視野に入れながら、昭和天皇崩御後の日本社会の動向について、細やかに事象を拾いながら串刺し式に論じる。上野千鶴子や内田樹、福田和也など上の世代の論客に次々と戦いを挑み、時に返り血を浴びながら、歴史の深みへと斬り込んでいく。

歴史学を教えてきた立場から、大河ドラマが不人気なものとなり、司馬遼太郎や吉村昭など歴史小説の大家も亡くなり、大学で歴史を学ぶことへの関心が失われ、教養としての「歴史」が成立しなくなった時代に、歴史について考える意味を実存的に問う姿勢も面白い。

『平成史』は「著者」と「世界」の間のねじれた関係を、著者自身が罹った病も含めて、そのまま体現した「歴史書」である。

高浜虚子の句に「去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの」という句がある。江藤淳が好んだ句で、あとがきで與那覇はこの句を引き、江藤は「社会に生じた巨大な変化や断絶を潜り抜けて、誰にとっても同じように過去から未来へと貫通する、歴史の実在を信じ」たかったのだろうと解釈している。

その上で「平成という時代を経て、いまはもう誰も、歴史を『貫く棒の如きもの』のようには、感じることができない」と與那覇は述べている。

このような悲観性は與那覇の「芸風」であるとはいえ、與那覇自身が「平成史」の「喪の作業(フロイト)」の只中にいることの現れだと「精神分析」することができる。

フロイトのいう「喪の作業」は、愛情が向かう対象が消えた後で、その喪失を受けとめ、未来へと向かうための休息期間を意味する。新型コロナ禍ではじまった令和の現代は、「平成史の喪の作業」に取り組むのに最適の時期だ。

「歴史の喪失はもう、悲劇ではない。それはむしろ喜劇なのである」という『平成史』を締めくくる最後の言葉を、私たちが「ポジティブ」に受け止め、令和の時代に、何を投げ返すことができるのか。

與那覇潤が実存を賭けて問うまなざしは鋭い。


酒井 信(Makoto Sakai)
1977年生まれ。早稲田大学人間科学部卒業。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程修了。博士(政策・メディア)。慶應義塾大学助教、文教大学情報学部准教授を経て、現職。専門はメディア論、ジャーナリズム論、文芸批評。著書に『最後の国民作家─宮崎駿』(文春新書)、『吉田修一論─現代小説の風土と訛り』『メディア・リテラシーを高めるための文章演習』(ともに左右社)、近著に『現代文学風土記』(西日本新聞社)などがある。



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