映画『この世界の片隅に』を参照しながら、「完全な主体性」を成熟のモデルとした社会は、現代日本では成立せず、「自分を誰かの代わりとみなしてみる」ような、他者との共存のあり方を模索する必要があると説く。
このような與那覇の言説は、一見すると上の世代の論客を次々と討ち取っていく勇猛さと比べて、リベラルで老成した印象を受ける。しかしこのように優しく「平成史に寄り添う」姿勢が、メンタル・ヘルスの問題を潜り抜けた、近年の與那覇の著作の魅力でもある。
海外滞在の経験を踏まえて、個人的な考えを記すと、少子高齢化の時代は苦しいが、ドイツやオランダのように移民政策に力を入れ、グローバルに競合し得る産業基盤を維持できれば、與那覇が指摘する日本の問題は、他国に比べて「緩和し得るもの」だと考える。
また自然災害のリスクが高いとはいえ、現代日本は発展途上国や他の先進国と比べて社会インフラが強固であり、昭和恐慌や敗戦直後の時代とは異なって、国家として物理的な基盤が整っている。
「時代の虚無に抗うための仮構として作り上げた『日本』」が「それ自体が出自から空疎だった」という與那覇の指摘は、やや「精神論」的で、手厳しく感じられる。
ただホイジンガを引き、自己を「衰えゆくもの、すたれゆくもの、枯れゆくものにいつまでも目を奪われがちな人」と位置付ける與那覇の筆致には、実存に裏打ちされたユーモアが感じられ、歴史を深掘りする「坑道のカナリア」らしい、高い批評性が宿っている。
例えば與那覇は、三島由紀夫の『太陽と鉄』の一節を引き、1995年に初回が放送された『新世紀エヴァンゲリオン』との類似点を指摘しているが、三島作品とエヴァを、時空を超えて比較する「歴史家」は、唯一無二だろう。
『平成史』は、與那覇潤が「歴史学者」として著す「最後の書物」になるのだという。個人的には、平成期に引退宣言を繰り返し出してきた宮崎駿のように、この言い回しは彼の「宣伝文句」の1つだと理解している。
與那覇がユーモアを交えて悲観しているように「平成史」が「通史」で描き得た「日本で最後の時代」となるはずはなく、新型コロナ禍からはじまる「令和史」もやがて「通史」として回顧され、彼自身の批評が期待されるだろう。
大学在職中に広義の気分障害の診断を受けた與那覇は、日本の大学の人文科学を取り巻く教育・研究環境の問題を体現する存在である。
大学教員に教育や研究以外の業務負担が重くのしかかり、とりわけ文系の学部・学科の統廃合が進む状況で、アカデミズムとジャーナリズムの双方で活躍することは容易ではない。論壇誌が次々と廃刊となり、出版不況が続く中で、依然として「商業誌で書いている教員」はアカデミックな世界で嫉妬され、時に難癖をつけられ、目の敵にされる。
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