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経済学は、人々の経済活動を研究する学問である。労働、生産、所得、消費、貯蓄、投資など、我々の日常生活の行動原理やその波及効果を分析しているのだから、その研究結果と生活実感は、かなり合致したものになるはずである。
家計は、値段が下がればより多く消費しようと思うし、企業は、値段が上がればより多く生産しようと考える。経済全体で消費が増えれば、それだけものやサービスを生産するようになって稼げるので、国民全体の所得が増える。こうした経済活動の基本原理は、経済学が探究するところと軌を一にしている。
しかし、興味深いのは、経済学者の多くが納得ずくで同意している定説や命題でありながら、それが世間では正反対の見解が支持を得ていたり、信じられている点である。それは人々の生活実感と大きく異なっていることが理由であるが、そもそもどうしてそうしたことが起こるのだろうか。
一因として、世の中の行動原理を理解するアプローチの違いが挙げられよう。経済学は、演繹法を用いる(ちなみに、ここでいう経済学は、いわゆる近代経済学を指す)。
何も難しい話ではない。多数の事例に共通する点を解明して、その共通点から導き出される法則性を基に、世の中の行動原理を探究するのが、帰納法のアプローチである。世の経験則は、帰納法的に導かれている。
他方、様々な実験や研究から世の中の行動原理が従うべき法則性を仮説として見出し、その法則性が成り立つことを検証し、成否を確認することを通じて、世の中の行動原理を探究するのが、演繹法のアプローチである。自然科学の多くは、演繹法を用いている。
例えば、仮に経済学者がある事象について計算法則「1+1」に則って、「2」という結果を出したとする。しかし、世間の生活実感ではその数値は少なく、「3」であると感じたのであれば、そもそも計算法則そのものが間違っているのではないかと反論することになるだろう。
しかし、演繹法的な立場をとる経済学者側からは、計算法則に従えば答えは「2」にしかならないのだから、絶対に間違っていないと再反論することになるだろう。もし、世間の生活実感に照らして「3」という結果を導き出したいのであれば、(演繹法的な立場では計算法則は絶対なので、)1に「1を足す」という前提条件が妥当ではなく、1に「2を足す」べきとなる。
つまり計算法則ではなく、前提条件を変えるのだ。この違いを認識すれば、演繹法的立場と帰納法的立場が建設的に議論ができる。
経済学では、演繹法のアプローチに従い、前提に否がないと認められるならば、経済理論に基づき必然的に結論が誤りなく導かれる、と考える。しかも、多くの経済学者が妥当と思う汎用性のある経済理論に基づいて推論している。だから、その推論に否がないと認められれば、経済学者の多くはその結論に同意する。
このように、経済学者の多くが同意している定説や命題には、かなり強固な根拠があり、「経済学の常識」を形作っている。他方で、それが、必ずしも人々の生活実感と合致しないことがある。それこそが経済学者の間では「常識」とされることが、世間では「非常識」とみられるものともいえよう。
本特集では、6名の経済学者に、こうした「経済学の常識」を読者にぶつけて頂くこととした。経済学の前提知識はなくとも、両者のギャップを楽しんで頂けると思う。
vol.101
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