サーシャ・フィリペンコ
『赤い十字』
(奈倉有里訳、集英社、2021年)
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『赤い十字』(拙訳、集英社)は2001年から始まる──ひとりの青年がロシアからベラルーシの首都ミンスクに越してきて、隣家に住むタチヤーナおばあさんと知り合う。アルツハイマーを患いながらもなかなか元気なそのおばあさんは、なかば強引に自らの生涯を語り始める。
──ロンドンに生まれ、革命期に亡命ロシア人の波に逆行するようにソ連に戻った風変わりな父に連れられてモスクワへやってきた。外国語の知識を生かし外務省のタイピストになり、第二次大戦期には赤十字国際委員会からの電報を翻訳し続ける。
赤十字の主な要求は、捕虜名簿の開示と捕虜の交換、待遇改善などだったが、ソ連当局は応じず、返信すらしない。そんななか、タチヤーナは戦地に赴いていた夫の名前をルーマニアの捕虜名簿に見つけ、とっさに「隠さなければ」と考える──
捕虜にとられた者は敵に寝返ったものとみなされ、ソ連に戻っても銃殺されてしまう。赤十字がよかれと思って送ってきている捕虜名簿が、ソ連政府にとっては「裏切り者の名簿」だということを彼女は知っていた。彼女は幼い娘を抱えながら黙して働き続けるが、いつ逮捕されるかわからない恐怖に絶えず怯えるようになる。
読んでいるとその恐怖は恐ろしいほど身に迫ってくる。第二次大戦期、戦争捕虜の交換と待遇改善のため世界の国々に呼びかけた赤十字国際委員会に対し、かたくなにそれを拒み続けたのが、ソ連と日本だった。捕虜となった国民の弾圧、「国のため」に湯水のように消費されていく人命......。
タチヤーナおばあさんは昔話をひと段落させると、現代のミンスクで、主人公を街北部のクロパティへと連れていく。そこにはスターリンの粛清で犠牲になった人々に捧げる碑がある。ところがベラルーシ政府がその碑を潰そうとしているので、その日はそれに反対する人々がデモをおこなうという。主人公は耳を疑う──粛清の悲劇が明らかになったはずの21世紀に、そんなことをする人がいるとは思えない。
しかしベラルーシではスターリンの復権がなされ、国をあげて「偉大な強権国家」への回帰がおこなわれているのだ。現地に集まりただ静かにろうそくを灯していた人々は、押し寄せた警官隊に倒され、主人公もおばあさんも、地面を引きずられて連行される。
そういったベラルーシの現実と、おばあさんから聞いた大戦期の話を併せて思い、主人公は「人の命は高価になることなどないのだ」と考える。「命はあらゆるもののなかでいちばん安価だ。その編曲は変わっても、旋律は変わらない。血はあいかわらず流れ続ける、人間とはそういうものだから」......。
フィリペンコがデビュー作の『理不尽ゲーム』で描いた現代から、ソ連の歴史へ遡った作品を描くようになったことにはいくつかの理由があった。
vol.101
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