学者を「坊主」に例えた丸山の比喩に倣えば、その布教活動を行う場こそが雑誌になろう。寺で行われる法要や教会でのミサと同じように、雑誌の刊行にも一定の定期性がある。寺の法要に通う「檀家」は雑誌を慕う読者にあたるだろうが、特に寺に直接通う「門徒」としての大学生は、かつてであれば総合雑誌の最大の読者層であった。ただそれも完全に過去の話となった。
丸山の論稿が広く読まれた時代とは、アカデミズムとジャーナリズムを取りまく社会状況は大きく変わった。今回の特集においても、いずれの論稿や座談会でも共通した問題意識として挙げられていたのは、そうしたアカデミズムとジャーナリズムの地殻変動である。そこには、今回の特集で主として議論されているアカデミック・ジャーナリズムを担う送り手側の変化とともに、それを支える受け手の側にも大きな変化があったように思われる。
現在の大学生の間で、総合雑誌が話題となることはまずない。そもそも総合雑誌の名前すらほとんど認知されていないだろう。丸山眞男のようなアカデミック・ジャーナリズムを象徴する「エライ学者」も、ひっぱたかれるどころか、見向きすらされなくなっている現状がある。総合雑誌どころか、新聞、雑誌、そしてテレビでさえも学生の日常生活のなかでは縁遠いものになりつつある。
だが、もちろん知的な関心が大学生をはじめとした層から失われたわけではない。SNSでの政治・社会の話題に関するつぶやきや、動画配信サイトでの歴史解説動画は注目を集めている。論壇記者座談会「知のアリーナを支える」では、かつての論壇において「あの人はどう発言するのか」と皆が注目する論者として山崎正和の名が挙げられている。そうした存在がいなくなったわけではなく、おそらく今の大学生たちにとっては、総合雑誌ではなく、TwitterやYouTubeの世界のなかにいる。
今号ではジャーナリズムにおける「分かりやすさ」としての「リーダビリティ」が重要なキーワードの一つとなっていたが、TwitterやYouTubeにおいてもまた「分かりやすさ」が重視されている。つぶやきや動画解説においても「分かりやすさ」こそが、リツイート数や再生回数、高評価数、フォロー数、チャンネル登録者数などの数字に直結するからである。東浩紀「数と独立」においても指摘されているようにまさに「数を集めるゲーム」となっている。
こうした数字を通して、支持や共感を可視化させるインターネットの仕組みは、「推し」という言葉で表現されるように、ファンカルチャーと親和性が高い。発行部数や視聴率など後になって分かる出版や放送のデータと異なって、リアルタイムで反映・更新される支持や共感の数値は、まさに自分自身が「推している」、すなわち参加・貢献している実感を読者や視聴者の側にも与える。
その環境下では、「推してくれる固定客」の囲い込みに主眼が置かれるようになる。それゆえに情報発信や議論のあり方も、社会全体に向けられたものではなく、支持してくれる「固定客」を優先するような、ファンカルチャー化している。
vol.101
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