LaylaBird-iStock.
最近、筆者のメールボックスにはこんな依頼が舞い込んでくる。
「ツイッターで◯◯についてつぶやかれてましたよね。◯◯についてコメントをいただけませんか?」
◯◯は、専門の主題であることもあれば、全くそうでないこともある。こんな依頼を、ウェブメディアやテレビ局のみならず、いまでは大手新聞社も行う。あまりよその領分に口出しすべきではないと思っていても、こうした形で研究者のコメントを募る姿勢はいささか拙速ではないかと感じる。
『アステイオン』95号の読後エッセイということで、アカデミック・ジャーナリズムという主題をいただいたが、筆者は社会運動研究者としての視点から、ここに「アクティヴィズム」を付け加えたい。
なぜ、アクティヴィズムなのか。あくまで筆者の視点からではあるが、上述したようなジャーナリズムの「拙速さ」には、オンライン上のアクティヴィズムの存在がある程度関わっているように見えるからだ。
例えば、2021年6月には、オリンピックの開会式に関わる予定であった人物が過去の発言や行動を指摘され、次々と辞退したことが話題になった。その出来事の是非は措くとして、筆者が気になったのはその報道の「拙速さ」だ。SNSで朝話題になったものが、夕方にはウェブメディアや大手新聞社のデジタル版で記事になり、専門家や研究者にコメントの依頼が来る。
本誌ではアカデミック・ジャーナリズムという特集名のもと、アカデミズムとジャーナリズムの連携や連動がさまざまな形で語られている。しかし、社会運動の研究者として筆者が現在考えていることは、あまりにもジャーナリズムがアクティヴィズムと自省なく繋がりすぎ、アカデミズムもそうした動きに翻弄されかねないという強い懸念である。
もちろん、筆者とてこのような状況の傍観者ではない。筆者自身がハッシュタグ・アクティヴィズムに関与したこともあれば、新聞に研究者としての視点から寄稿やコメントを寄せたこともある。そのため、アクディヴィズムともジャーナリズムとも関わりがないと言い切れない、ぎりぎりアカデミズムにいると自負している「研究者」だからこそ、この類の問題にはずっと頭を悩ませてきた。
アクティヴィズム、ジャーナリズム、アカデミズムの三者の関係を当事者として紐解くにあたり、東浩紀氏の論稿(「数と独立」)、渡辺一史氏・小川さやか氏・武田徹氏の鼎談(「『専門知』を『臨床知』で乗り越える」)は非常に示唆に富んだものであり、両論稿に共通点する「独立」というキーワードはとりわけ重要だと感じた。
東浩紀氏は、近年の論壇において、インターネット上で生じる「炎上」への警戒、PV(ページビュー)数やSNS上のアテンションといった「数の幻想」にアカデミズムとジャーナリズム双方が対抗できていない状況を踏まえ、その幻想から身を引き離すべきだという「独立の価値」を訴える。
また、渡辺一史氏・小川さやか氏・武田徹氏の鼎談において、小川さやか氏は研究費のクラウドファンディングやオンラインサロン運営といった「独立研究者」らの動きを紹介し、これまでとは異なる形でのアカデミシャンの独立の方途を提示した上で、アカデミック・ジャーナリズムにおける新たな協働のあり方を提示している。
vol.101
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