アステイオン

サントリー学芸賞

人道危機の裏側に民主主義と正義の危うさをみる

2021年12月22日(水)16時46分
中西嘉宏(京都大学東南アジア地域研究研究所准教授)

SUNTORY FOUNDATION


<本書は「フィールドワークの罠」から抜け出せた証しでもある。第43回サントリー学芸賞「政治・経済部門」受賞作『ロヒンギャ危機――「民族浄化」の真相』の「受賞のことば」より>


人がなかなか行かない場所で、誰もしなさそうな調査をして、新しい知見を生み出す。研究者のなかには、そういう仕事の仕方を好むものがいます。私もそのひとりです。このフィールドワーク派の研究者が陥りがちな罠があります。調査が面白くて現地にはよく行くけれども、本や論文を書く作業が疎かになる「フィールドワークの罠」です。これに私もはまっていました。

ところが昨年、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、海外への渡航が難しくなりました。そこで毎日何か書くことに決め、具体的な目標があった方がよいだろうと出版社に企画を持ち込み、運よく関心をもってもらって、そして出版に至ったのが本書です。たまたまとはいえ、私が「フィールドワークの罠」から抜け出せた証しでもあります。本が書店に並んだだけで満足してしまっていたので、思わぬ受賞の知らせには仰け反って驚きました。

私がこの本を書いたのは、国民国家、民主主義、そして正義について考えるためです。なんていうと格好がいいですが、有名な理論も、最新の学術的成果も、添え物のようにしか登場しません。もっぱら焦点があたるのは、東南アジアの西にあるミャンマーの、そのまた西の端にあるラカイン州で起きた紛争と人道危機です。

途上国で観察すると、国民国家、民主主義、正義、どれもなんとも危なっかしくみえます。社会はいくつもの分断を抱え、国家は脆弱で腐敗気味。民主的な制度はそもそも存在しないか、存在してもどこか詐欺的で、正義は紛争の原因にすらなっています。ロヒンギャと呼ばれるムスリムたちを襲った悲劇は、こうした危うさが顕在化した例にほかなりません。本書の出版から1週間後に起きたミャンマーでの軍事クーデターも大きくいえば同根の問題です。

あって当然だと私たちが考える制度や仕組みがうまく機能していないところに、ではいったい何があるのか。この疑問を常に念頭において仕事をしてきました。理想や先進国と比較して、あれがない、これがないと指摘するだけでは、わかった手応えはありません。それぞれの社会で独自の秩序が構築され、変化し、ときに壊れ、再構築される。そうした過程のなかに、感じて考えて行動する人間がいる。この、いたって当たり前のことに、アジアの研究を通じてどこまで肉薄できるかが自分の一生の課題です。

フィールドワーク派の強みが活かせる世界情勢になるには、まだ時間がかかりそうですが、それも新たな挑戦につながるものと前向きにとらえています。今回の受賞を励みに、これからも精進したいと思います。このたびは、歴史と栄誉あるサントリー学芸賞を賜り、まことにありがとうございました。

『ロヒンギャ危機――「民族浄化」の真相』(中央公論新社)

中西嘉宏(Yoshihiro Nakanishi)
1977年生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。日本貿易振興機構・アジア経済研究所研究員、ジョンズ・ホプキンス大学客員研究員、ヤンゴン大学客員教授などを経て、現在、京都大学東南アジア地域研究研究所准教授。著書『軍政ビルマの権力構造』(京都大学学術出版会)など。

サントリー学芸賞について(サントリー文化財団)

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