数を諦めるとは、そのような不毛なゲームから降りることを意味している。とりあえずぼくは降りた。そしてぼくはいま、できるだけ多くのひとに同じように降りてほしいと願っている。
だから、数を諦めることは、けっして言葉の公共性を諦めることを意味しない。むしろ、あらゆる発言がアテンションのゲームの駒として消費され、ほんらいの公共的な力を失ってしまう危険から身を引き離すことを意味している。
いまやその力は、少数の支持者を育て、そこだけで生計が回る土台を確保することでしか守れない。その土台があれば、無意味に数を追求する必要もない。炎上で右往左往する必要もない。
かつては大学組織がアカデミシャンに、出版社がジャーナリストにそのようなセキュリティを提供していた。けれどもいまは巨大な組織ほどSNSに振り回されている。そうであれば自分の自由は自分で守るしかない。だからぼくは独立が大事だと考えるのである。
ここまで読んで、でもそんな独立は東さんだから達成できたのではないのか、と疑念を抱いた読者もいるかもしれない。その疑いに答えるために、ぼくの会社では独自の情報配信プラットフォームも開発している。プラットフォームの名前は「シラス」といい、2020年10月にリリースしている(4)。
そこではさまざまな工夫を凝らして、それほど名前を知られていない研究者やクリエイターでも、数百人の支持者を集めればあるていど収入を得ることができる仕組みを整えている。シラスにはぼく以外のひとも参加できる。それは、できるだけ多くのひとに、アテンションのゲームから降りてもらうための支援装置である。
2021年8月現在、シラスには20の「チャンネル」が開設され、2万人を超える登録者がいる。今後どこまで育つかはわからないし、この事業そのものには限界があるかもしれない。けれども、たとえシラスが挫けたとしても、数の支配の外部を目指す似た試みが増えることでしか、日本の論壇はもはや往時の豊かさを取り戻すことはないと確信している。
ぼくたちはつながりが善とされる時代に生きている。現代社会では、知においてもビジネスにおいても成功の秘訣はつながりを増やすことである。できるだけ多くのひとを巻き込み、できるだけ多様な顧客に配慮することが、道徳的に正しく、また結果的に利益を生み出す選択だとされている。その空気のなかで独立を志すことはむずかしい。独立するとは、つまりはつながりを制限することだからである。
それにそもそも独立といっても程度問題である。ぼくはたしかに自社で書籍を刊行している。編集も営業も自前でやっている。けれども印刷所が協力してくれなければ本は印刷できないし、書店や配送業者が協力してくれなければ読者に届かない。広告費が圧縮できるのはSNSがあるからだし、独自開発のプラットフォームにしてもサーバーはAmazonから借りている。このグローバルな情報社会で、だれにもどこにも依存せず言論を発信しよういうのは非現実的だ。
にもかかわらず、それでも独立の価値を訴えているのは、繰り返しになるが、いまやつながりがあまりにも過剰で、逆に言論の公共性を蝕みつつあると感じるからである。大学人が教授会の顔色を窺う。物書きが編集部の顔色を窺う。そんな自己規制はむかしからあったしこれからもあるだろう。完全な自由はない。
vol.101
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