松浦氏はこの有用性について、オン・ザ・ロックスのウイスキーを比喩に用いて説明した。グラスに入っている一塊の大きな氷が学知で、ウイスキーのラインより上に出ている氷の部分が実践的な領域であるとする。いま求められがちなのは実践であるが、大きな氷全体のどの部分がラインより上に出るかは、アプリオリに決定できない。あるとき急に氷が回転し、これまでグラスの底に沈んで見えなかった部分が姿を見せることもあるからだ(たとえばヒアリ研究は、これまであまり脚光を浴びていなかったが、騒動が起こったことにより、有用性の領域に入ることとなった)。しかし、氷が回転したとしても、そもそも氷が大きくなければ、新たな部分が見えることもない。グラスの底に沈んでいた部分があったからこそ、すなわち何の役にも立たないと思われていた研究をしていた人たちがいたからこそ、有用性が生まれたときに対応することが可能となる。ここから、松浦氏は学問の重要性を説く。個別の研究分野はあるが、学問に分野というものは存在しない。学問は中心へ向かう力であって、それが学知を形成している。有用性の部分にだけ焦点を当てるということは、この学知を手放すということを意味する。個別の研究の有用性を説明することは可能であるが、安易にそれを説明すればするほど、学問から遠ざかってしまうことになる。それでよいのか。これが、松浦氏の中心的な主張であった。
大竹氏は、この話を受けて、納税者に対するアカウンタビリティーの重要性と「役に立つ」という定義を再考する必要があるのではないかという議論を展開した。たとえば、お笑い芸人やスポーツ選手に向かって、お笑いやスポーツが何の「役に立つ」かと問われることはほとんどない。それは、多くの人々がそれらを見て楽しんでいる、すなわち幸福度を増しているからである。そういった観点からも「役に立つ」という言葉をとらえる必要があるのではないかという問題提起である。
それに対して、橋本氏は自身の具体的なエピソードを紹介した。自分の研究成果を市民に還元するべく、おじいさんやおばあさんに研究内容を説明してみたが、全く面白さが伝わらない。しかし、幼稚園に通っているような子どもが、自分と握手をして非常に喜ぶというようなことがあった。橋本氏の研究は、人間が知るこの宇宙のほとんど全ての事象を説明する式を解析するという壮大な研究である。この研究の意味を子どもが理解できたわけではないだろう。しかし、おそらくその子は科学者という職種の人間がいることは知っており、その科学者が目の前にいるという事実だけで幸せになった。これは、巨大な加速器を見るだけで喜びを感じるような、いわゆる「巨大科学萌え」にも通じるところがある。こうしたプリミティブな感覚もふまえて、「役に立つ」の定義を再考しなければならないのではないかというのが、橋本氏の見解であった。
vol.101
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