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2017年12月7日(木)大阪にて堂島サロンが行われた。今回はゲストスピーカーとして鷲田清一先生が、『教養と専門』をテーマにお話をしてくださった。以下は講義の要約と感想である。
教養というものには、一方では大きな視野で学問の世界をとらえる幅広さがあるが、もう一方では、ひとつのことを調べつくす作業が必要となる。広さと狭さの二律背反のようなものが、教養を論じるときには必ず出てくる。
ではこれまで「教養人」はどういうイメージで受け取られてきたか、垂直と平行という見方を基準にして考えてみよう。
まず《垂直方向の教養》だが、明治大正期の教養人には、古今東西の文学・美術などに通じ「高尚」な趣味をもっている人、鑑賞する人というイメージがある。漱石のように高等遊民的なところがあり、実利に無縁なまま博識をもって見下ろすような構えがあった。
それに対し、昭和の初期に批判がでてきた。その典型が三木清だろう。この人はあまり性格がよくないというか(笑)、教養主義批判というのは、教養人像を描いてそれを批判するようなところがある。政治に無関心を装うのは、国会議員へのルサンチマンだというわけだ。彼は断片的な知識の在り方を批判、より基礎的で根源的な視点がなくてはいけないと言い、いわば「教養主義の哲学化」を推し進めた。
しかし高等遊民的なものであれ、哲学的なものであれ、同時代に対し批判的な距離をとろうとしていたことは共通している。上から俯瞰するか、根源へと深めていくか、方向は逆でも、いずれも垂直なのだ。だがこれからの時代は、《水平方向の教養》というものが考えられるべきではないか。
ここで水平というのは英語のdepth、フランス語のprofondeur、空間的に言うと「奥行き」のことだ。この水平の教養について、二つの例を挙げて説明しよう。
東日本大震災のとき、直後からさまざまな活動をしたが、4月に入ると放射能の問題が深刻化した。そこで人々の不安を少しでも解消するため、大阪大学にいる原子力関係の研究をしている方々を集めてシンポジウムをひらいた。その最後に講演者の方が聴衆の方々に向かって「みなさんにとって、どんな専門家が『いい専門家』ですか」と質問した。すると「一緒に考えてくれる人です」という声があがった。
vol.101
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