苅部 『アステイオン』も、51号(1999年4月)からは国際知的交流委員会(CIC)の日本委員会が「編者」ということになり、表紙も巻頭言も大きく変わります(60号、2004年3月まで)。山崎先生のお名前も日本委員会の一人として奥付に復活します。この時期の誌面では、欧米の筆者の文章が一気に増えますが、これは『Correspondence』の本誌とニュースレターからの転機なんですね。同時に、日本側の執筆者には若い世代が目立つようになります。
山崎 今はみんな大家ですけれども、まだ若いと言える歳だった。たとえば鷲田清一さんは絶対に政治のことを書かない人だったのに、国家論を書いてほしいと私がお願いしたら、書いてくれました。56号(2001年11月)の特集「国家と倫理」に載った「全体という擬制―〈国家〉の存在をめぐって」(のち『時代のきしみ―私と〈国家〉のあいだ』に再録)。私が編集者としての意欲を大いに発揮する時代に、また戻ったわけです。
苅部 そして『Correspondence』が終刊すると、『アステイオン』も61号(2004年11月)からリニューアルして、「アステイオン編集委員会」が編者という、ほぼ現在まで続いている体制になります。
山崎 このころから出版不況がますます深刻になったのが、私にとって新しい動機になりました。政治・経済の評論やルポルタージュはともかく、人文系の評論を載せる雑誌がますますなくなってしまった。反対にこのころから私の関心は、人文系に傾いていきました。それが『社交する人間―ホモ・ソシアビリス』(2003年単行本化)や『装飾とデザイン』(2007年)といった仕事になってゆきます。一番鮮烈な記憶があるのは『装飾とデザイン』ですが、ああいうことを考え始めて、さて載せる場所はというと、『アステイオン』しかないんですね。続けて『世界文明史の試み―神話と舞踊』を連載し、今「リズムの哲学ノート」を書かせてもらっているという状況です。
苅部 「社交する人間」の連載第1回は2000年11月の第54号ですが、おもしろいのは同じ号に東浩紀さんの「ポストモダン再考」が載っています。これは『アステイオン』にとっては大きな転機でしょう。もともとポストモダン思想の大流行のさなかに創刊したにもかかわらず、非常に冷たかったんですね。何しろその言葉を題名に含む文章が載ったのは、それ以前は、曽根泰教さんの「ポストモダンの選挙制度改革」(19号、1991年1月)を除けば、ダニエル・ベルのパートナーのパール・K・ベルさんが書いた「ポスト・モダンを超えて」(34号、1994年10月)が唯一だったという(笑)。
vol.101
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