山崎 やがて、雑誌にとって困ったことが起きました。監督官庁であった文部省の国際学術局が、文化財団の事業を本業と副業に分けたなかで、副業を整理せよと言ってきた。本業は研究助成だというわけです。そこで1991年、文化財団が特定公益増進法人になったときに、雑誌を財団の外に出しました。
苅部 1991年7月の21号から、編者がサントリー文化財団・生活文化研究所ではなく「アステイオン編集部」に代わり、文化財団が外から助成する形式になっています。
山崎 この時に編集委員も若返りを図って全員交替し、北岡伸一さん、竹中平蔵さん、三浦雅士さんに入ってもらいました(1994年1月、31号まで)。さらにその後、粕谷氏が編集顧問(32号、1994年4月)になり、直接の「編集人」は文化財団の事務局の人にやっていただく体制(1997年まで)に変わります。
ただ、この時期から私は『アステイオン』から一歩引いているんです。ベルとドイツのヴォルフ・レペニースを含む国際的な事業の方に関心が移った。アメリカンアカデミー、ベルリン高等研究所、サントリー文化財団の三者で、国際知的交流委員会(CIC)による『Correspondence』という国際雑誌を出し始めました。
苅部 1997年に始まって2004年まで続いていますけど、準備は2、3年前から始められたんでしょうね。
山崎 言い出しっぺは私なんです。日本の論壇の議論を世界に向けて発信したいという野心があったわけです。アメリカとヨーロッパ、そして日本を含めたアジア(韓国なども念頭にありました)、三つの地域の代表的な論文の要約を英文の雑誌に載せ、それを世界中のジャーナリストに配ろうと。これを読んだ各国の雑誌編集部がおもしろいと思ったら、筆者と直接連絡をとってくれという考えだったわけです。お金はほぼ日本側、サントリーが出した。編集の実務はベルのいたアメリカンアカデミーがやってくれる。ヴォルフは東ヨーロッパにも強くて、そちらでもいろんな雑誌を集める。
しかし、やってみると本当に大変です。田所昌幸さんの力も借りて、苦労しながら全部で10号までがんばった。今となってはほろ苦い思い出にすぎないんですけれども、ジャーナリズムの国際化は、そう簡単にうまくいくものじゃない。ですからこの間、私はもう『アステイオン』どころじゃなかったんですね。
vol.101
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