安保法案反対を掲げたSEALDsなどの運動は、単一の課題に集中する「ワンイシュー」「シングルイシュー」の運動と呼ばれる。運動に集う人々は雑多であり、統一的に編成された諸課題のパッケージを掲げることは難しいのだろう。しかし、反原発、反レイシズム、反安保といった一連の「シングルイシュー」の運動は、別個の課題でありながらも同じような人々によって中心部分が担われてきた印象があり、課題間にどういうつながりがあるのか、いまひとつ不明瞭なまま事態が推移してきたように見える。
「シングルイシュー」の運動は、人々を動かし、結集させる点で大きな威力を発揮した。だが、何かの政治課題に注目してはすぐ忘れる、といういつもの情景を乗り越えることが果たしてできるだろうか。時々の運動は盛り上がりつつも、最後には「改憲阻止」という「シングルイシュー」で戦わざるを得ない日が来るのではないか。そしてそれは、憲法の全体についての社会的な議論がないまま改憲の賛否のみが争われる事態を意味するのではないか。
やはり、運動のほかに継続的な議論を可能にする開かれた場と仕組みの必要性を痛感する。たとえばSEALDsは「立憲主義を尊重する政治」、「人々の生活を保障する政治」、「対話と協調に基づく平和的な外交・安全保障政策」という立派なオピニオン群を持っている。運動では前景化されなかった論点を含めたトータルな議論が起こるとすれば、それは来るべき改憲論争にも大きな影響を与えるはずである。日本が目指すべき国家のあり方についての議論や、どのような防衛力が必要で(あるいは不要で)、国民はどの程度の犠牲を払うのか(あるいは払わないのか)という議論は、あらゆるレベルで避けて通るべきではない。
次の佐藤卓己の講演「輿論2.0の可能性――輿論の世論化を超えて」は、そういった根源的な議論の前提を考えるものだった。佐藤がまず指摘したのは、世論調査という名の国民感情調査に左右されることの危険性である。安倍政権の低い内閣支持率を根拠に安保法案を批判するメディアは、支持率が上昇してしまったら何を根拠に論陣を張るつもりなのか。「熟慮のメディア」としての新聞は、「世論」数値を盾にした言論ではなく、「世論」に抗してでも主張し続けられる言論を目指すべきではないのか。佐藤はそう説く。
vol.101
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