先日あるラジオ番組の企画で、「こいつはスゴイ! と思う日本の男を挙げてください」と質問された。パッと思いつかず、5分近く悩んでやっと頭に浮かんだのが「龍馬」と「白洲」と「湛山」。悩んだわりにありきたりなのが情けないが、後から思い返しても、山田方谷や上杉鷹山のように有能で勇敢な人物はいろいろあるが、理屈抜きに単純に「凄い」と感じるのはこの3人と杉原千畝くらいしかいない。
坂本龍馬も白洲次郎も、ドラマや小説で美化された部分がおそらく少なからずあり、豪胆な傑物というイメージ通りの人物だったかどうかは疑わしい。しかし信じるに足る史料だけから判断しても、その視野の広さ、時代におもねらない意志の強さは、近現代に政治の舞台にかかわった男たちの中で突出している。
龍馬も白洲も石橋湛山も強烈なナショナリストでありながら、もっぱら日本だけでなく世界全体をスケールとした枠の中でで国の進むべき道を考えた。情や理想に流されず現実を冷徹に計算し、沸き立つ世論に逆らっても正論を唱え続けた。リアリストでありプラグマティストであり、筋金入りのグローバリストだった。ネットはおろかテレビさえなかった時代に、なぜか的確な世界観をもっていた。
思い出したついでに半藤一利氏の『戦う石橋湛山』(東洋経済新報社・新装版)を読み返した。昭和初期、関東軍が暴走していくなかで新聞がそれを支え、熱に浮かされたように世論が醸成されていく過程が詳しく書かれている。昭和5年のロンドン軍縮会議の後、統帥権干犯問題では毅然として軍を批判した朝日新聞や毎日新聞が、翌年柳条湖事件が起きると事実関係もろくに確かめずに関東軍の行動を正当化し、支那に屈するな、満州を守れと書き続けた。新聞が世論を煽り、世論が新聞を煽った。
ことほどさように世論があやふやで危ういものであるとは、今回の民主党の代表選を見てもつくづく感じる。新生党結党以来の小沢一郎氏の盟友でありながら、菅直人首相支持に回った石井一参院議員は代表選後、「決め手は世論」「世論の勝利」と語った。石井氏の言う世論とは党員・サポーター票での圧倒的な差であり、代表選前に行われた新聞各紙の世論調査における菅首相の支持率の高さ、小沢氏の支持率の低さを指しているのだろう。
その「世論」とはつまるところ何か。世論調査の内容やテレビで紹介される街頭インタビューを見るかぎり、2人の政策の中身や政治手腕、政治家としての実績を比べての判断ではなく、「小沢さんはクリーンでない」「総理大臣をコロコロ変えるべきでない」という印象論だけから生まれた薄っぺらなものだ。
コミュニケーションの不得手さ、何事も説明を軽んじる態度、集票至上主義的な手法を考えると、「政党家」「政局家」としての力量は別としても、政治家として小沢氏がいまこの国の指導者にふさわしいとは思わない。しかし司法がクロと認められなかったものを、あれだけ報道されているのだから怪しい、強制起訴になるかもしれないから首相にするべきでないといった"イメージ"で偏った世論が醸成され、それが首相を決める選挙の結果を決定的に左右したとすれば、何かが狂っていると言わざるをえない。
検察審査会の問題点については、ジャーナリストの江川紹子氏が自身のサイトに掲載した記事で鋭く指摘している。江川氏が書いているように、「刑事責任は、道義的責任、民事責任、あるいは政治的責任とは別に考えるべき」だ。メディアはそれをごちゃまぜにし、読者や視聴者は思考を停止して政策や政治ビジョンの違いから目をそらした。世論というモンスターが暴走する様は昭和初期と変わりない。
軍需に沸く財界や市民は満州事変を歓迎し、不買運動を恐れた新聞は好戦的な論調を強めていった。東洋経済新報主幹だった湛山はそうした圧倒的な空気に抗って中国を「侵略」することの不道理と不利益を説き、 「満蒙を捨てよ」と主張し続けた。いま学ぶべきは湛山という稀有なジャーナリストの存在ではなく、なぜ多くの人が彼の言葉に耳を傾けなかったのか、ということかもしれない。