しかし、2000年以降に日本独自のアーキテクチャが生まれていったことに着目しているという意味においては、より本質的な部分は「2ちゃんねる」に言及した第三章、日本最大のSNSとして発展した「ミクシィ」とアメリカの「フェイスブック」を比較した第四章、そして「ニコニコ動画」を扱う第六章、そして「ボーカロイド・初音ミク」とケータイ小説『恋空』にまで踏み込んだ第七章だといえる。
興味深く感じたのは、日本のソーシャルウェアの「普及」に対する著者の考え方だ。たとえば、なんらかの強力なウェブ・アプリケーションが開発されたとしても、それが広範な層に普及することはないだろうとしているのである。
理由は明快で、ブログにしてもSNSにしても、外見のレベルでは米国でも日本でも同じアーキテクチャが使われているとはいえ、ユーザーサイドの欲望やコミュニケーションスタイルが異なるからこそ、日本においてはソーシャルウェアの「異文化屈折」が起こるのだという。
おそらくここに観察される「屈折」現象が、日本のネットワーク・コミュニケーションをめぐる状況を何度も反復している以上、おそらく日本のソーシャルグラフをめぐる状況は、少なくとも米国とはかなり異なる形態で発展することは間違いありません。(165ページより)
たとえば「ミクシィもオープン化されて米国の状況に近づいていく」というような単純な展開は、ありえないだろうということだ。しかしそれは、決して悲観的な意味ではなく、むしろここから先に本書の核心部分がある。
つまり、将来的に日本のアーキテクチャに変化がもたらされるのであれば、そのコミュニケーション文化に最適化されたアプリケーションの開発(著者はこれを「アーキテクチャと文化のすり合わせ」と表現している)が必要になってくるわけで、そこが重要だということだ。
これまで私たちは、インターネットや情報社会の理想のあるべき姿を、米国の実態を通じて、「ただ一つ」のものとして学んできました。(中略)それゆえに、少なくともインターネットに理想を見出す人であればあるほど、なぜ米国におけるネット現象が日本のウェブ上に起きないのか、その落差に少なからず苛立ちや無力感を感じてしまいがちだったわけです。(342ページより)
ところが実際には、米国とは異なるかたちで、技術(アーキテクチャ)と社会(集合行動)が密接に連動し、変容している。だとすれば私たちは今後、アーキテクチャと社会の諸システムとの「共進化」を目にすることができるであろうということだ。インターネットを軸としたアーキテクチャと私たちの今後のあり方を考えるうえでも、いまこそぜひ目を通しておきたい。
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