政府も社会保障もいらない、という極端な反権威主義と、平等な個人が自発的に助け合うという共同体主義。両者の結合はインターネットの「根本思想」として、いまも私たちの利用するネットのあちらこちらに散見される。バーブルックとキャメロンという二人のメディア学者は、この二つの理念の相乗りを「カリフォルニアン・イデオロギー」と呼び、インターネットという技術が、実はアメリカ社会の理想を体現するものであることを明らかにしたのである。
自由はどこまで守られるべきか
そのような背景を踏まえてあらためて本書を読み返すと、そこで描き出されている人々が、単に経済的利益だとか自身の快楽だけを目的に「ダークネット」を彷徨っているのではないことが見て取れるのではないか。前に挙げたベルや第3章に登場するアミールなど、ダークネットの世界には、そこでこそ実現される自由を至上のものとして考える人々が無数に存在し、日々活動している。本書の意義は、そうした人々が「何をしているのか」だけでなく「何を考えているのか」をありありと浮かび上がらせた点にある。
だからこそ私たちは本書を、単なる「アングラレポート」として読んではいけないのだが、もちろん日本の問題を考える際に参考になるところもある。たとえば第2章に登場するポールをはじめとするレイシストやナショナリストたち。日本ではこうした人々は「ネット右翼」と呼ばれ、街頭での醜悪なヘイトスピーチの影響もあって、一般にも問題視されるようになっている。だが、実際にそこで起きているのは、複数の研究やレポートが明らかにするように、ネットでつながった人々の輪の中で「使命と役割」を与えられたことで、その場を抜けられなくなっていくという現象だ。本書ではEDLの創設メンバーであるトミーがまさにそれに当てはまるだろう。
あるいは、第7章に登場するアミーリアのような「プロアナ」たち。日本のネットではこうした人々は「メンヘラ(メンタルヘルスに問題を抱えた人々)」と呼ばれ、たとえば自殺サイトや自傷サイトに集い、ときに集団自殺に至ることもある(逆に、こうしたサイトのおかげで一線を踏み越えずに済んでいる人々もいる)。ネットで同じような立場や考えの人だけで集まって交流しているうちに、考え方や行動が極端なものになっていく現象は「集団分極化」と呼ばれるが、そうした傾向は、日本だけでなく海外でも顕著であるようだ。
ともあれ、全体として見れば、やはり英米を中心とした海外の事例を見ると、そこには「強い思想」が背景に存在していることを感じずにはいられない。当然のことながら、それはネットに対する「規制」をどう考えるのかという点においても、大きな違いとなって現れてくる。